連載終了:沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」(全170回)

沢井 鈴一(さわい すずいち)
沢井鈴一

1940年 愛知県春日井市生まれ。明治大学文学部卒業後、市邨学園高等学校で国語科を教え、2000年3月に定年退職。名古屋市中区、北区等の生涯学習センター講師を務めるかたわら、堀川文化探索隊代表として長年にわたり堀川文化の地を調査・探索し数多の企画展を実現。著書に 『浮世絵は愉しい―沢井コレクション百選』 『伝えたい―ときめきを共有する教育』 『堀川端ものがたりの散歩みち』 『花の名古屋の碁盤割』 『名古屋本町通りものがたり』など多数。
Webサイト:開府400年・名古屋の歴史と文化

  • 2014年5月9日

    第20講 杉村界隈 第6回「祖父薬師 円満寺」

    円満寺は国道一九号を春日井の方にむかい長い坂をくだり、瀬戸電を通り越した左側にある。 車で走ってゆくと、 寺は中京銀行の陰に隠れ、屋根がかすかに見えるにすぎない。この寺の近くで育った幼なじみの二人が心中をするという『たったひ...

  • 2014年5月2日

    第20講 杉村界隈 第5回「大衆演劇の殿堂 鈴蘭南座」

    「座長!」「一平ちゃん!」。威勢の良い声がかかる。涙をぬぐっているお婆さんが何人もいる。舞台は、股旅物の人情劇、子別れのシーンだ。役者も観客もここぞとばかりカが入る。 鈴蘭南座は大衆演劇専門の劇場だ。名古屋では二か所、全国で...

  • 2014年4月25日

    第20講 杉村界隈 第4回「料亭の文化 十州楼」

    大曽根の料亭、十州楼の歴史を綴った『十州楼のあゆみ』を手にしていた時だ。なつかしい顔が載っている。先代の女将道家晶子さんだ。『十州楼のあゆみ』は、晶子さんが亡くなった時、その遺品の中から直筆原稿の「私の知って いる十州楼の歴史」な...

  • 2014年4月18日

    第20講 杉村界隈 第3回「かれは是れ吾れにあらず 普光寺」

    明暮れに うつ鐘の音も聞ずして 又も日暮るる浮世なりけり 杉村八景の一つ、普光の晩鐘を詠んだ歌である。普光寺の晩鐘の音色のすばらしさは、古くから知られていた。その普光寺の鐘を鋳る時に、ある人が、 ふめたたらやれふめたた...

  • 2014年4月11日

    第20講 杉村界隈 第2回「西行橋 杉ノ宮神社」

    ふりつもる 雪の小夜風寒くして 人も音せぬ宮の松ケ枝 杉村八景の一つ、八幡暮雪の大日の森を詠んだ歌である。 杉村の里、修蒼と茂る大日の森の中に八幡社が鎮座していた。現在の清水小学校の地にあった八幡社が、寛永七年(一六三...

  • 2014年4月4日

    第20講 杉村界隈 第1回「古い家並みの残る城東町一帯」

    城東町から長田町にかけては古い町並みが残っている。戦災とその後の復興事業で昔の町の姿がほとんど失われた名古屋では貴重な風景である。 このあたりは明治まで農村地帯であったが、大正一元年(一九二乙から城東耕地整理組合によって都市...

  • 2014年3月28日

    第19講 御用水跡街園 第9回「志賀の源吉──安栄寺」

    墓場の片すみに立っている六地蔵をよくみかける。仏教の考え方では、人間は死ぬと六道のいずれかに、生前の行いによって、ゆくのだそうだ。生前に悪い行いをした人は、地獄におちてゆく。やせ細り、のどが針のあなのようで、飲食することのできない...

  • 2014年3月21日

    第19講 御用水跡街園 第8回「子どもの守神──児子宮」

    北生涯学習センターの北の道を東にむかって歩いてゆく。通りをはさんで小さな祠が南側と北側の地に立っている。祠の中には、お地蔵さまがまつってある。北側の駐車場の脇にまつられているお地蔵さまは、駐車場の持主の方が三代にわたり守りをしてい...

  • 2014年3月14日

    第19講 御用水跡街園 第7回「『ざーざー橋』の位置が変わった──昭和の改修」

    猿投橋で黒川はザーザーと音をたてて流れ落ちている。川底が三メートルほどの段差になっているからだ。段差の下では、大きな鯉がいつも群れている。 犬山から名古屋へ行き来していた舟は、この落差をどうやって上り下りしていたのだろうかと不思議...

  • 2014年3月7日

    第19講 御用水跡街園 第6回「べか舟が運んだ人と物──黒川船着場」

    北清水橋から堀川を見おろすと、護岸にはサツキが植えられ、川沿いに散策路があって、橋の近くは広場になっている。人工の滝が落ち、花や水生植物が植えられ、昔の常夜灯のようなものも設けられている。ここは、かつて黒川の船着場だったところだ。

  • 2014年2月28日

    第19講 御用水跡街園 第5回「御用水・黒川を錦に彩る──染色工業地帯」

    名古屋は全国有数の繊維産業が盛んな地域であり、とりわけ北区には多くの紡績・織物工場があった。織物にはさまざまな色や模様をつける。染めた糸を織ったり、織りあがった布を染めたりして色や模様をつくりだす。染色は実用品としての布を、使う人...

  • 2014年2月21日

    第19講 御用水跡街園 第4回「『彩紅紅雲』清流に花ともみじ──大幸川」

    今では姿を消した川、大幸川。かつて北区の用水や排水につかわれ、今の黒川(堀川)の一部にもなった川である。 はるか昔、庄内川や矢田川は上流から土砂を運んできて下流部で堆積し、海であった所が少しずつ陸地になっていった。川岸には自...

  • 2014年2月14日

    第19講 御用水跡街園 第3回「乗合馬車が走る黒川岸──犬山街道」

    黒川東岸の御用水跡街園は散策路として親しまれ、散歩やジョギングを楽しむ人の姿が多い。対岸は車も通ることができる道だが、桜の季節以外には人も車も少ない静かな裏道だ。車は平行している辻本通を走りぬけ、都心や春日井へと向っている。この静...

  • 2014年2月7日

    第19講 御用水跡街園 第2回「お堀や巾下水道へ水を──御用水跡街園」

    堀川(黒川)に沿って夫婦橋から猿投橋まで、御用水跡街園が続いている。  このあたりの堀川は、市内ではめずらしい草生えの土手が残り、小魚をねらってコサギなどの鳥が集まり、時には「清流の宝石」カワセミの姿も見かける。さながらふるさとの...

  • 2014年1月31日

    第19講 御用水跡街園 第1回「マダム貞奴──川上絹布跡」

    過ぎし昔の夢なれや  工女工女と一口に とかく世間のさげすみを  うけて口惜しき身なりしが 文化進める大御代の  恵みの風に大道を なみせる古き習しや  思想を漸く吹き払い この歌は、川上貞(芸名・貞奴)が大正七年(一...

  • 2014年1月24日

    第18講 三階橋より水分橋 第9回「黒川に水を分ける橋──水分橋」

    明治九年、黒川が掘削されると、その掘り上げられた土でもって犬山街道が造られた。街道に橋が架けられたのは明治十一年の四月。鉄筋コンクリートの橋になったのは昭和十八年の十一月のことだ。橋の長さは二百五メートル、幅は十一メートルである。...

  • 2014年1月17日

    第18講 三階橋より水分橋 第8回「舟が通った庄内用水──元杁樋門」

    北区の楠と守山区を結んで、水分橋がかかっている。水を分ける橋‥‥ずいぶん変わった名前である。橋のすぐ上流には、ダムのような物がある。市内ではここにしかない珍しいものだ。 橋の北では八田川が庄内川に流れ込んでいる。南では堤防に...

  • 2014年1月10日

    第18講 三階橋より水分橋 第7回「一粒でも多くの米を──巨大井戸の掘削」

    庄内用水元杁樋門のすぐ下流に、巨大な井戸がある。井戸の直径は六メートル、井筒の高さは三メートルというジャンボサイズだ。たぶん、名古屋で一番大きな井戸ではないだろうか。所々コンクリートの表面がはがれて中の鉄筋が赤錆びた姿をのぞかせ、...

  • 2014年1月3日

    第18講 三階橋より水分橋 第6回「輪中の里──栄橋」

    三階橋を渡り、矢田川の堤防を東に歩いて行く。小さな祠が祀ってある。疫病から人々を護るという天王社の祠だ。矢田川の堤防上には、信号がないから車がひっきりなしに往来している。車道の際にある祠に、わざわざ危険を冒して参りに来る人はいない...

  • 2013年12月27日

    第18講 三階橋より水分橋 第5回「石山寺道──下街道」

    石山寺の東の細い道を北に歩いてゆく。寺のコンクリート塀の北側に新しい道ができている。この広い道は、寺の裏で行き止まりになっている。 塀に面して小さな石柱が立っている。標識のようだ。字が摩滅していて、よく読めない。少し距離を置いて標...

  • 2013年12月20日

    第18講 三階橋より水分橋 第4回「ほとけの誓いおもき石山──石山寺」

    色あざやかな、つつじが咲き乱れている。石山寺の山門をくぐると庭は、別世界のようにはなやかだ。突然、烏がけたたましたく鳴き出した。静寂な境内に、鳴き声が不気味にひびきわたる。何羽もの烏が、いっせいに鳴きたてる。不意の侵入者に、犬が大...

  • 2013年12月13日

    第18講 三階橋より水分橋 第3回「天神さまお神酒に酔う──高牟神社」

    矢田川の堤防の上に幟り立が建っている。祭の時には、この幟り立に高い竿が立てられ、幟りが風になびいてはためく。堤防の上を何台もの車が走ってゆく。この幟り立に気づいて、車を運転している人は誰もいないであろう。 堤防の下、森の中に...

  • 2013年12月6日

    第18講 三階橋より水分橋 第2回「白沢川・御用水──何度も姿が変わった古川」

    三階橋の北東に守西ポンプ所がある。庄内用水(堀川)の上に建つ、小さなポンプ所だ。このポンプ所へ古川が流れ込んでいる。牛牧(小幡緑地付近)あたりから流れ出し、新守山駅の南を通り、ここまできている。国道一九号より上流は石張りの護岸など...

  • 2013年11月29日

    第18講 三階橋より水分橋 第1回「五千人の農民橋に集まる──三階橋」

    黒川治愿を顕彰する碑が春日井市内に四基建立されている。もっとも名文で書かれた碑文は中央公園の南、神明社に建っているものだ。 碑文は、次のように始まっている。 古人云、排百難而萬利生。吾嘗聞之。今見之。如愛知縣東春日井郡上條新...

  • 2013年11月22日

    第17講 黒川治愿の足跡をたずねて 第9回「サイフォン──地蔵川」

    中央線を汽車に乗って、名古屋の中学校に通っていた頃の話だ。汽車は、ゆるやかなスピードで走ってゆく。地蔵川に列車が通りかかると異様な臭いが車内にたちこめてくる。今でも、その悪臭を思い出す程だから、そうとう強い臭いであった。 小...

  • 2013年11月15日

    第17講 黒川治愿の足跡をたずねて 第8回「黒川治愿遺沢之碑──御幸橋」

    八田川に架かる御幸橋の傍の堤防上に黒川治愿の碑が建っている。碑には明治四十二年十二月、子息の黒川耕作の手によって記された文が刻まれている。碑文の書き出しは、 勝川字新開之地数十町荒野薄田不レ耕者年久矣。 と始まっている...

  • 2013年11月8日

    第17講 黒川治愿の足跡をたずねて 第7回「画の如し八田川──十五丁橋」

    木津用水は朝宮公園で八田川と合流し、庄内川に注いでいる。今は細い水の流れだが、かつては、この川に犬山から名古屋まで船が通じていた。 鈴木寿三郎は味鋺原八景のなかで、「八田川曳船」という題で五言絶句を詠んでいる。 一水通...

  • 2013年11月1日

    第17講 黒川治愿の足跡をたずねて 第6回「ハニワ道──二子山古墳」

    二子山公園には、三つの古墳が点在している。 公園の北側にあり、墳頂に白山神社が鎮座しているのが白山神社古墳。主軸長八四メートル、後円部の高さ約七メートル。周りに濠がめぐらされている。 公園の西側にある古墳が御旅所古墳。古墳墳...

  • 2013年10月25日

    第17講 黒川治愿の足跡をたずねて 第5回「日輪寺晩鐘──日輪寺」

    大正十年、東春日井郡長となった鈴木寿三郎は漢詩を作ることが得意であった。彼に味鋺原八景を詠んだ五言絶句がある。八景の中の一つ、日輪寺晩鐘は次のような句だ。 亭々日輪寺  庭樹帯レ雲重  斜照将二西落一  殷々鳴二梵鐘一 ...

  • 2013年10月18日

    第17講 黒川治愿の足跡をたずねて 第4回「古墳の中の社──白山神社」

    白山神社は古墳の中に鎮座している。白山神社古墳の近くには二子山古墳、お旅所古墳、春日山古墳などがあり、いずれの古墳も、この地を支配していた豪族の墓と推定されている。 白山神社は、もともとは味鋺村の白山薮古墳にあったが、万治二...

  • 2013年10月11日

    第17講 黒川治愿の足跡をたずねて 第3回「伝統をうけつぐ──木遣り保存碑」

    春日井市内に二つの木遣りの記念碑が建っている。一つは文化センターの裏手にある柏原公園内にある「佐久間義良木遣記念碑」だ。八田川の堤防沿いに建てられていた碑は、昭和四十五年、区画整理事業によって、現在の公園内に移されてきた。 柏原公...

  • 2013年10月4日

    第17講 黒川治愿の足跡をたずねて 第2回「白山神社黒川治愿の碑──味鋺原新田改修記念碑」

    白山神社の境内に一つの碑が立っている。碑文は、次のような書き出しで始まっている。 古人云苦ニ在テ而テ後ニ楽ヲ得ル者其感最モ深シト。宣ナル哉我村民ノ如キ艱苦ニ在ル久シカリキ。本村旧ト味鋺原新田ト稱ス。舊今尾藩ノ領地タリ。水田僅...

  • 2013年9月27日

    第17講 黒川治愿の足跡をたずねて 第1回「刀利天狗の丘──春日山公園」

    春日山公園は桜の名所だ。落花盛んという風情の今日も、大勢の人が公園に集まり、花見を楽しんでいる。鈴木寿三郎は『味鋺原八景』」に「春日山春雨」と題して、次のような五言絶句を詠んでいる。 春雨如二烟霧一  濛々春日山  遥聞古松...

  • 2013年9月20日

    第16講 上飯田界隈 第8回「赤心富士──六所宮」

    冬にしては暖かい日だ。明るい陽ざしが境内にさしこんでいる。老人がひとり、腰をかがめて、拝殿の前に座り日なたぼっこをしている。暖かい日ざしに誘われ、昨日までは蕾だった梅も紅い花びらを開いている。 鳥居の東に六所宮と書かれた大き...

  • 2013年9月13日

    第16講 上飯田界隈 第7回「幻の寺──どんぐり広場」

    町歩きの楽しみは、有名な神社仏閣を訪れることでも、すばらしい景観にふれることでもない。 一度も訪れたことのない町の、本通りから一本はずれた小路に入ってゆく。そこには、昔ながらの長屋が残っていたり、朽ちはてた土蔵があったりする...

  • 2013年9月6日

    第16講 上飯田界隈 第6回「石庭──霊光院」

    この寺は、臨済宗の名刹である。元和元年(一六一五)、上飯田の斉藤四良右衛門が祖先の冥福を祈って建てた。白砂が陽光にきらめいている霊光院の庭は、石と砂だけでできている。霊光院という寺の名は、四良右衛門の法名の霊光院吉岸宗禅居士からと...

  • 2013年8月30日

    第16講 上飯田界隈 第5回「トロッコ道──大曽根中学校」

    「とてもあの人にはかなわない」。上飯田の古老たちが、異口同音に賞賛する人がある。今年九十五歳になる幸村宗一さんだ。かくしゃくたるものだ。かつて幸村さんから、老いてなお元気でいる方法を三つ伝授された。 「上を向いて歩きなさい。...

  • 2013年8月23日

    第16講 上飯田界隈 第4回「焦げた灯籠──長全寺」

    本堂の高い檀の上に釈迦牟尼仏の像が安置してある。目を凝らし見てみる。薄暗くて像がはっきりと見えない。 「私の寺は戦争で焼けてしまいましたが、この本尊だけは一宮の萩原にある成福寺に預けてありましたので助かりました。  成福寺は...

  • 2013年8月16日

    第16講 上飯田界隈 第3回「黒川治愿と林金兵衛──三階橋」

    春日井市の西部、八田川と新木津用水が合流するところに朝宮公園がある。公園に沿うようにして新木津用水が流れている。朝宮公園の傍らに黒川治愿を顕彰した木津用水改修之碑が建っている。この碑は戦後新しく建てられたものだ。戦前に、この地にあ...

  • 2013年8月9日

    第16講 上飯田界隈 第2回「子どもたちの歓声が聞える──天然プール」

    三階橋ポンプ所が建っている場所には、庄内川から取り入れ矢田川の下をくぐって流れてきた水を、庄内用水・黒川・御用水・志賀用水・上飯田用水などに分水するための大きな池があった。  石積みの護岸に囲まれ、庄内川から流れてきたきれいな白砂...

  • 2013年8月2日

    第16講 上飯田界隈 第1回「川の立体交差──矢田川伏越」

    「川が立体交差している」と聞くと、ほとんどの人はびっくりする。道路の立体交差は、あちらこちらで見て知っているが、川のそれは見る機会が少ない。しかし、ずっと昔、名古屋では江戸時代初期から造られており、こちらのほうが本家本元だ。川が地...

  • 2013年7月26日

    第15講 福徳・中切・成願寺 第9回「ドンド焼き──六所神社」

    火の粉が、空に舞い上がる。紅蓮の炎の中から、神棚に正月中飾ってあった注連飾りやお札が灰となって飛び散ってゆく。 他の地では一月十四日か十五日に行われる左義長が、成願寺の六所神社では十日に行われる。四本の青竹で囲まれた中にうず...

  • 2013年7月19日

    第15講 福徳・中切・成願寺 第8回「萩の雨──矢田川堤」

    矢田川が安井町の北側を流れていた頃は、堤防には松林がつづき、秋ともなれば萩の花が一面に咲き乱れる名古屋の五十景の一つに数えあげられる名勝であった。 この地に遊んだ文人の俳句を二、三紹介しよう。渡辺沙鷗は、次のような前書きと俳...

  • 2013年7月12日

    第15講 福徳・中切・成願寺 第7回「天災は忘れぬうちにやってくる──ふれあい橋」

    成願寺を越えて、矢田川の堤防に上り、車が通行することのできない「ふれあい橋」を味鋺にむけて渡ってゆく。矢田川では、渡り鳥がえさをついばんでいる。川原では、すすきの穂がゆれている。のどかな眺めだ。しかし、この矢田川が大雨により堤防が...

  • 2013年7月5日

    第15講 福徳・中切・成願寺 第6回「あわれむべし断髪禅衣の像──成願寺」

    成願寺は、矢田川の堤防の真下にある。堤防の上を何台もの自動車が走り過ぎてゆく。澄みきった大空に、飛行機が一本の白い線を残して消えてゆく。墓石の林立している中を歩いてゆく。静寂そのものだ。こののどかな成願寺の里も、かつては矢田川の水...

  • 2013年6月28日

    第15講 福徳・中切・成願寺 第5回「木霊(こだま)──天神社」

    受験シーズンに入って、どの天満宮も大変な賑わいだ。おびただしい数の絵馬には、入学を希望する学校の名前が書かれている。なかには、子どもに内緒で、代理で母親が参拝にきている姿もみられる。 壮大な神域の天満宮でありながら、受験生の...

  • 2013年6月21日

    第15講 福徳・中切・成願寺 第4回「漂着の祠──乗円寺」

    矢田川が氾濫した時、流れ着いた祠が乗円寺に祀られているという話を聞いた。漂着した祠を神社に合祀するのはよくある話だ。寺に収めるのは不思議な話だと訝しく思いながら乗円寺を訪ねた。 乗円寺の東隣は幼稚園だ。幼稚園との境に、二体の...

  • 2013年6月14日

    第15講 福徳・中切・成願寺 第3回「風さわぐ──神明社」

    大木が枝をゆるがせて鳴っている。神明社にある何十本もの大木が、強風に吹きさらされ音をたててさわいでいる。風が和(な)いでいる日には、森から一斉に聞こえてくる鳥のかしましい鳴き声も、今日は聞こえてこない。 石段をあがって、社殿...

  • 2013年6月7日

    第15講 福徳・中切・成願寺 第2回「花の白雪ふり残る──聖徳寺」

    『尾張名所図会』は、聖徳寺を次のように紹介している。 福徳村にあり。天台宗、野田密蔵院の末寺。隣村成願寺は安食重頼、法名常観の菩提寺であるので、安食庄内の本寺で、この寺および中切村乗円寺等、みな常観寺の支院であったが、今は本...

  • 2013年5月31日

    第15講 福徳・中切・成願寺 第1回「矢田川の砂──八龍神社」

    こんもりと茂った森が見える。あれが八龍神社に違いないと思って歩いていく。福徳・中切・成願寺の三郷地区を歩いていて、鬱蒼(うっそう)とした森が見えれば、まがうことなく神社だ。その土地の守り神が祀られている場所を鎮守の森という。三郷地...

  • 2013年5月24日

    第14講 大我麻・喜惣治 第10回「災害は忘れぬうちにやってくる──新川洗堰改修碑」

    国道四十一号線の新川中橋から右へ曲がると洗堰だ。道はいちだんと低くなっている。庄内川をあふれた水が、新川に流れこむような仕掛けになっている。 堤防の上に一つの碑が建っている。明治十六年の九月に建てられた新川洗堰改修碑だ。碑文...

  • 2013年5月17日

    第14講 大我麻・喜惣治 第9回「上流を見つめる除災地蔵尊──新川と洗堰」

    国道四一号の庄内川に架かる新川中橋に立つと、西には養老山地が、東には瀬戸方面の山々が霞んで見えている。河原にはゴルフ場があり、大都会の一隅とは思えないのどかで穏やかな風景である。 このあたりでは、庄内川と矢田川は平行して流れ...

  • 2013年5月10日

    第14講 大我麻・喜惣治 第8回「桜並木──新川堤防改築記念碑」

    龍神社の傍らの石段を上ってゆく。石段には公孫樹の葉が一面に散っている。 堤防は桜並木だ。昭和三十年、対岸の喜惣治の堤防に、楠町が名古屋市と合併したのを記念して、六百数十本の桜の木が植樹された。比良の堤防にも、喜惣治の堤防にあ...

  • 2013年5月3日

    第14講 大我麻・喜惣治 第7回「季節はずれのかきつばた──蛇池公園」

    鬱蒼とした森の中に、一本の細い道が続いている。道の奥には天神社が祀られている。 「昼でも薄暗い、気持ちの悪い道だった。恐いものだから、あの森には子どもたちは誰も近付かなかったなあ。今の高架の下の辺に森はあったよ。」 古...

  • 2013年4月26日

    第14講 大我麻・喜惣治 第6回「歯痛の観音さま──喜惣治観音」

    喜惣治を歩いていて、一人の老人と知りあった。最初に出会ったのは、神明社の南側にある天王社だ。祠の前に立って熱心に祈っていらっしゃる。どういう神様を祀った祠であるかを尋ねたのが、知り合うきっかけであった。まず、丁寧な言葉づかいに感心...

  • 2013年4月19日

    第14講 大我麻・喜惣治 第5回「公孫樹ちる──喜惣治神明社」

    公孫樹の葉が陽光にきらめきながらゆっくりと落ちてゆく。それは、残されたわずかな時を惜しむかのようにゆっくりとした散りかたであった。一晩木枯らしが吹き荒れたら公孫樹はまちがいなく裸木になってしまうだろう。今日は、裸木になっているか、...

  • 2013年4月12日

    第14講 大我麻・喜惣治 第4回「生命をかけた水あらそい──久田良木樋門」

    大我麻神社の北側に広大な北部市場がある。北部市場の西側には、久田良木川が流れている。大我麻神社を出て、北部市場に向かう。樋門(ひもん)に出る。樋門から流れ出た久田良木の細い流れは大山川と合流している。久田良木川の北は豊山町、大山川...

  • 2013年4月5日

    第14講 大我麻・喜惣治 第3回「水神の祟り──大我麻神社」

    古老が往来をみつめながら、ぽつりとつぶやいた。 「大蒲がこんなに人家が建って発展するとは、夢にも思っていなかった。」 喫茶店の前は国道四十一号線である。ひっきりなしに車が通ってゆく。高架の上からも車の騒音が聞こえてくる...

  • 2013年3月29日

    第14講 大我麻・喜惣治 第2回「水との凄絶な闘い──大蒲池と新田開拓」

    今から六百年ほど前までは、大蒲、喜惣治一帯は、葦や蒲の茂る湿地帯であった。 いったん豪雨があると、大山川、合瀬川、境川が増水し、庄内川が氾濫した。水は、師勝、比良、大野木以西へ流れ込みしばしば大きな被害をもたらしたのである。 ...

  • 2013年3月22日

    第14講 大我麻・喜惣治 第1回「寺のない町──妙見堂」

    喫茶店の窓から外をぼんやり眺めていた。ひどく疲れていた。喜惣治橋を渡り、蛇池公園に行き、その帰りに妙見堂を探して歩きまわっているうちに疲れてしまったのだ。 「妙見堂には、どう行ったらいいの」 珈琲を運んできた店の人に聞...

  • 2013年3月15日

    第13講 如意界隈 第8回「六ケ池──猿田彦社」

    少年が六ケ池で釣りをしている。橋の上から「釣れるか」と声をかけると素っ気ない声で「一匹も釣れない」という声が返ってきた。「ここには何がいるのか」と重ねて聞くと、「鯉やブラックバス」がいると答えた。 六ケ池は三町二反もある広大...

  • 2013年3月8日

    第13講 如意界隈 第7回「庚申待──岳桂院」

    夕陽が境内に差しこんでいる。楠の大木が夕陽に染まっている。岳桂院を尋ねる時には、楠の大木をめがけて歩いてゆけば、しぜんと行きつくことができるであろう。それにしても立派な大木だ。幹まわり二メートル、高さ二十メートルはある。鳥のさえず...

  • 2013年3月1日

    第13講 如意界隈 第6回「冬の蝶──堀田天神」

    コスモスの花が風にゆれている。菊の花も蕾を開いたばかりだ。鶏頭のまっ赤な花が、今を盛りと咲いている。如意の住宅地の中に、広大な畑が残されている。畑には野菜が片隅に少し植えてあるだけで、残りの土地は花畑となっている。花畑の上を一匹の...

  • 2013年2月22日

    第13講 如意界隈 第5回「如意の富士山──富士塚」

    アパートの前に土を高くもった広場がある。広場の中には、小さな石碑が建っている。石碑を守るかのように、樹々が茂っている。(※編集部注:2012年12月の写真取材時には石碑はなく塚も写真のように一部しか残っていません。) 「昔は...

  • 2013年2月15日

    第13講 如意界隈 第4回「池の堤の池──忠魂碑跡」

    南側の楠小学校、北側の如意の学習センターに挟まれた一画に広大な池がある。池といっても水は湛えられていない。生活汚水が流れ込み、一条の細い流れを作っている。雑草が生い茂った池の中を生活汚水は流れてゆく。 古老から忠魂碑が建って...

  • 2013年2月8日

    第13講 如意界隈 第3回「椎の木の茂る参道──瑞応寺」

    山門をくぐって、瑞応寺の境内に入ってゆく。静寂そのものの世界だ。鳥のさえずりだけが梢の間から聞こえてくる。参道の両側には、椎の老木が何本もそびえている。幹まわりは、二メートルはあろう。高さは優に二十メートルは超えている。外は、陽光...

  • 2013年2月1日

    第13講 如意界隈 第2回「小学校が建っていた寺──鶏足寺」

    一本の道が如意を抜けて、大我麻に通じている。細い道をバスが用心深く走ってゆく。大我麻町に高速道路の楠JCTができてから、この道はJCTに通じる裏道となって、いつも交通渋滞をひき起している。味美から如意を通り比良にぬける、この道は如...

  • 2013年1月25日

    第13講 如意界隈 第1回「にょらい塚──大井神社」

    にょらい塚を探して、如意の里を歩いた。「にょらい」何とも魅力的な響きだ。楠町には多くの塚が散在している。味鋺には百塚と呼ばれるほど多くの塚があった。如意にも「道観塚」「富士塚」「鳥見塚」など、かつてこの地に存在した塚の名前が地名(...

  • 2013年1月18日

    第12講 味鋺界隈 第7回「雷除の神社──西八龍社」

    東日本大震災の例をとるまでもなく自然の猛威の前には、人間はなす術を知らない。科学が発達し、あらゆることが解明されたかに見える現代でも、人間の無力を嘲笑うかのように、自然は猛威をふるい災害をもたらす。自然を畏怖する心から、自然を敬う...

  • 2013年1月11日

    第12講 味鋺界隈 第6回「森の中の記念碑──忠魂社」

    味鋺神社を出て、庄内川の堤防下の道を真っ直ぐ西にむけて歩いてゆく。すこし歩くとこんもりと茂った森が見えてきた。森の中に何があるだろうか、興味を持って森をめざして歩いて行った。 森の中には小さな神社があった。鳥居の傍らに皇紀二...

  • 2013年1月4日

    第12講 味鋺界隈 第5回「天平の鴟尾──護国院」

    新川中橋を渡り、庄内川の堤防道路を水分橋にむけて車を走らせる。庄内川の水が、ゆったりと流れていく。遠く堤防の上から眺める庄内川の流れは、とどまっているのか、流れているのかわからないようなゆるやかな速度だ。しかし、川辺にたたずんで水...

  • 2012年12月28日

    第12講 味鋺界隈 第4回「夫婦椿──味鋺神社」

    平成十五年十月一日、味鋺神社の縁起を記した立札の除幕式が行われた。味鋺神社は『延喜式』の「神名帳」に記されている由緒ある神社である。立札には、延喜五年(九〇五)に勅をうけて調査が始められ、延長五年(九二七)に国の神社として指定され...

  • 2012年12月21日

    第12講 味鋺界隈 第3回「通路になった社──東八龍社」

    「私は味鋺に移ってきてから三十年になります。今年、八十になりますが、毎日、家でじっとしているのも辛いので、この東八龍社に来て境内の草とりをしています。見てください。そこにも犬の糞がすててあるでしょう。庄内川の堤防からの細道が神社の...

  • 2012年12月14日

    第12講 味鋺界隈 第2回「薮から出てきた神獣鏡――白山薮古墳址」

    保育園の庭から、子供たちのにぎやかな笑い声が聞こえてくる。子供たちは、片時もじっとしておれないようだ。かしましいこと、このうえもない。かつて、この保育園の地は、一面の薮におおわれていた。薮の下には古墳が埋もれていた。味鋺百塚と呼ば...

  • 2012年12月7日

    第12講 味鋺界隈 第1回「無限の慈悲のほほえみ──首切地蔵」

    新地蔵川を渡り、庄内川に向けて歩いて行く。橋を渡ると四辻に出る。四辻の西北の地に、二つの祠が建っている。東の祠にはお地蔵さま、西の祠には味鋺神社から迎えたお礼が祀られている。 ここに祀られているお地蔵さまは、他の地にあるお地...

  • 2012年11月30日

    第11講 柳原から土居下 第7回「弁天様の社──深島神社」

    深島神社は、もとは弁才天、あるいは深島弁才天とも呼ばれていた。 深島は、柳原の西北にある、この地の古い地名。弁才天は七福神の一として福徳賦与の神として信仰されている女神である。江の島、宮島、竹生島、大和の天の川、宮城の金華山...

  • 2012年11月23日

    第11講 柳原から土居下 第6回「八重一重(やえひとえ)咲き乱れたる──柳原御殿址」

    長栄寺の南の地に、江戸時代、八代藩主宗勝の第六子松平藤馬の豪壮な邸宅があった。世の人々は、この屋敷を柳原御殿と呼んでいた。広大な庭には、山あり、池あり、四季おりおりの花に彩られていた。特に春の桜の見事さ は圧巻であった。 柳...

  • 2012年11月16日

    第11講 柳原から土居下 第5回「徳高き活仏の寺──長栄寺」

    国道四一号線をはさみ、豪潮寺と呼ばれる寺が東側の大杉の地と西側の柳原の地にある。柳原の豪潮寺は長栄寺のことである。 長栄寺は、もともとは愛知郡東郷町諸輪にあった寺で、養老年間(七一七~七二三)に泰澄が建てたものである。野間の...

  • 2012年11月9日

    第11講 柳原から土居下 第4回「霞になびく柳原──柳原商店街」

    『名区小景』に「柳原の霞」という題で数多くの歌が載っている。 朝日さす御城のうへより立そめて 霞になびく柳原かな  嘉寛 柳原かすむ春日に見わたせば 花よりさきの錦なりけり  正蔭 の二首は柳...

  • 2012年11月2日

    第11講 柳原から土居下 第3回「赤レンガの紡績工場──旧三井名古屋製糸所」

    ケネディ空港、アメリカの首都ワシントンなど個人の名前をつけた空港、都市は外国には数多くある。日本にも豊田市など企業名から都市の名前が付けられた例はあるが、個人名が町名や都市の名となっている例はあまりないであろう。 北区に黒川...

  • 2012年10月26日

    第11講 柳原から土居下 第2回「たなばたの森──多奈波太神社」

    たなばたの森さへ川の隔てあり 多奈波太神社で詠んだ白梵庵馬州の句である。この句に詠まれた多奈波太神社は、延喜式神名帳に載っている一千年以上の社歴を持つ神社である。多奈波太神社は樹木が鬱蒼と茂っていたので、七夕の森とも呼ばれた...

  • 2012年10月19日

    第11講 柳原から土居下 第1回「豪力の和尚が持ち帰った門扉──西来寺」

    西来寺の庭に立って、外をながめる。山門の上部の透しの扉を通して、外の通りを見ることができる。山門を出て、外から寺の中を見ても、門扉で、中を見ることができない。 他の寺院の門扉と異なり、この寺の門扉は武家門扉である。扉の上の部...

  • 2012年10月12日

    第10講 下街道大曽根界隈 第9回「油屋『熊野屋』」

    赤塚町にある享保十年(一七二五)創業の油屋「熊野屋」 赤塚の町名由来を『尾張名陽図会』は、次のように記している。 むかし弘法大師、熱田宮に籠り給ひ、夏百日が間、五の日毎に龍泉寺の観世音に詣で、余の日にはこの大曽根の地に...

  • 2012年10月5日

    第10講 下街道大曽根界隈 第8回「赤塚神明社」

    神社の境内に佇ずむだけで、その里の歴史を感ずることができる。その里ばかりではなく、過去の日本が辿ってきた道に、自然と思いをはせる場合もある。赤塚神明社は、そんな神社の一つだ。 国道十九号に面して、楠公湊川神社の石碑が立ってい...

  • 2012年9月28日

    第10講 下街道大曽根界隈 第7回「瑞忍寺」

    瑞忍寺創建の由来について『尾張名陽図会』は次のように記している。 元和年中(一六一五~一六二三)、当所に源左衛門といふ百姓の後家が、居みし屋敷の畠にて石仏を掘り出しけるが、古くなりて面体も分らず。小仏なれば大黒と思ひ安置す。...

  • 2012年9月21日

    第10講 下街道大曽根界隈 第6回「了義院」

    『尾張名陽図会』は、了義院を次のように説明している。 此地元は冷谷山成就院とて不動尊を本尊とせし真言宗の寺なりしが、いつしか荒廃してありしを安永年中峯上人といふ人、摂津国野勢の妙見の尊像をうつし仏工に彫刻せしめ是を本尊として...

  • 2012年9月14日

    第10講 下街道大曽根界隈 第5回「関貞寺」

    今は、建物に隔てられ何も見ることはできないが、明治の終わり頃までは美濃、越前、加賀、近江、三河、信濃、尾張北部の七州が一眸に収められたので、関貞寺の書院は七州閣と称せられていた。 『尾張名陽図会』に 関貞寺は大曽根の坂...

  • 2012年9月7日

    第10講 下街道大曽根界隈 第4回「片山八幡神社」

    東区には、国道十九号を隔てて片山神社が芳野町に、片山八幡神社が東大曽根にある。二つの片山神社は、式内社の地位をめぐり、明治時代まで争いを何百年間もくりかえしていた。 津田正生の『尾張地名考』はそのいきさつを 瀧川氏蔵王...

  • 2012年8月31日

    第10講 下街道大曽根界隈 第3回「本覚寺」

    本覚寺は、日蓮宗、京都妙伝寺の末寺。もともとは清洲の地にあった寺で、本法寺と呼んでいた。寛永年中(一六二四~一六四三)に現在の地に移ってきた。 正保五年(一六四八)恵性院日相が本尊をこの寺に移し、本覚寺と名を改めた。本尊は、...

  • 2012年8月24日

    第10講 下街道大曽根界隈 第2回「道標」

    五差路を越して十九号を走れば勝川、多治見に行くことができる。下街道と呼ばれていた道は、だいたいは現在の十九号に沿って通じていた道だ。 矢田から守山・瀬戸に通じている道が瀬戸街道だ。 瀬戸街道と下街道の分岐点に道しるべが...

  • 2012年8月17日

    第10講 下街道大曽根界隈 第1回「中央線大曽根駅」

    明治三十三年(一九〇〇)中央線の多治見と名古屋間が開通した。それと同時に大曽根駅設置の運動が起こってきた。国鉄では大曽根駅を設置するにあたり、瀬戸と大曽根間に民間による鉄道設置を条件として出してきた。 明治三十八年(一九〇五...

  • 2012年8月10日

    第9講 下街道の山田庄 第6回「長母寺」

    山田重忠は、父母と兄を供養するために三つの寺を守山に建てた。 治承三年(一一七九)母親を供養するために創建した寺が長母寺である。父親のために建てた寺は長父寺で、現在は名前を変えて大永寺となっている。兄のために建てた寺の長兄寺...

  • 2012年8月3日

    第9講 下街道の山田庄 第5回「矢田川」

    矢田川の花火といえば、夏の風物詩として知られている。毎年、おおぜいの人が矢田川で空高くあがる花火を見て興じている。 『金鱗九十九之塵』に、矢田川の花火の記述がみられる。 大杁水車 街道より北江這入所にあり 此所毎も夏...

  • 2012年7月27日

    第9講 下街道の山田庄 第4回「廣福禅寺」

    広福禅寺の経営する山田幼稚園が国道十九号に面して建っている。幼稚園の正門前には「山田重忠旧里」の碑が、園庭には「贈正五位山田重忠朝臣之碑」がある。山田重忠は承久の乱(一二二一)に後鳥羽上皇について、北条義時の軍と戦った人。美濃の国...

  • 2012年7月20日

    第9講 下街道の山田庄 第3回「常光院」

    山田天満宮に隣接し、北側にある寺が常光院である。元和年間(一六一五~一六四二)、宥賢和尚が、長久寺の念仏堂として結んだ寺である。たび重なる洪水に苦しむ村人たちの信仰によって、支えられてきた真言宗智山派の寺である。境内には、そんな地...

  • 2012年7月13日

    第9講 下街道の山田庄 第2回「金神社」

    山田天満宮の境内社として金神社が祀られている。金神社は延享三年(一七四六)の創建で、祭神は「岐神」「金山彦神」「大国主神」。神社には、金神社の名前にちなんでか、お金を洗うことができるようになっている。お金を洗うと金銭に不自由をしな...

  • 2012年7月6日

    第9講 下街道の山田庄 第1回「山田天満宮」

    千種区の上野天満宮、中区の桜天神社とともに、受験シーズンともなると合格祈願の受験生の姿が狭い境内の中に多くみられる。 東風吹かば匂おこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ 配流の地・太宰府で、都をしのんで詠んだ菅原道...

  • 2012年6月29日

    第8講 志賀の里 第10回「六所社」

    北区内には、六所社が下飯田、上飯田、安井町、金城町にある。いずれも祭神はイザナギ、イザナミ、天照大神、スサノオノ尊、月夜見尊、蛭子の六柱。 イザナギはわが国土や神々を生み、山海や草木を掌った男神。イザナミはイザナギノミコトの...

  • 2012年6月22日

    第8講 志賀の里 第9回「光音寺」

    黄雲山光音寺は曹洞宗の古寺である。江戸時代は大須の万松寺の末寺であったと伝えられている。庭の中に名古屋市の指定文化財である無縫塔がある。歴代住職の墓塔である。細長い塔身は鎌倉時代の作で、やや不均整な印象を与える。中台は小型で厚みが...

  • 2012年6月15日

    第8講 志賀の里 第8回「揚り戸古墓地」

    尾州山田庄志賀郷と記されている安栄寺の六地蔵は、もともとはこの揚り戸の古墓地に昭和の初期まであったものである。揚り戸とは、小船などによって、物資を積みおろしする地のことである。志賀公園の東一帯は、かつて揚り戸と呼ばれ、船から荷揚げ...

  • 2012年6月8日

    第8講 志賀の里 第7回「平手政秀宅址」

    志賀公園の中に平手政秀を顕彰する碑が建っている。享和二年(一八〇二)に建立されたものだ。漢文で刻まれた文を書き下し文に直せば「人誰か死に至らざる。或は鴻毛より軽く、或は泰山より重し。其の重きや之に處するに有り、其の軽きや之を決する...

  • 2012年6月1日

    第8講 志賀の里 第6回「志賀公園遺跡」

    昭和五年(一九三〇)、西志賀土地区画整理組合が平手政秀を顕彰するための公園を造成した。地下を掘りすすんでゆくと土師器、須恵器、山茶碗等が出てきた。小栗鉄次郎、吉田富夫氏らの調査によって、弥生時代前期の東限の貴重な遺跡であることが判...

  • 2012年5月25日

    第8講 志賀の里 第5回「綿神社」

    綿神社は延長五年(九二七)醍醐天皇の命によって調査され、国の神社として指定された『延喜式』の神名帳にも載っている由緒ある神社である。『尾張名所図絵』には、綿は海の仮字で、昔はこの辺まで入海であったと記されている。 綿神社の綿...

  • 2012年5月18日

    第8講 志賀の里 第4回「四十八祖社」

    北区郷土史研究会の刊行した『田幡志』に、次のような記述がある。 昔志賀村の城主平手中務太輔政秀諌死の後、其息某勘気をこうむれることありて、久しく赦免なかりしが、其臣某等度度赦免を請へども不赦ければ今は力尽き、四十八人自殺して...

  • 2012年5月11日

    第8講 志賀の里 第3回「霊源寺」

    曹渓山霊源寺は曹洞宗の古い歴史のある寺である。元は千種区古井の光正院の末寺で、始め万亀山大福寺と称していたが宝暦十年(一七六〇)今の寺号に改められた。霊源寺の墓の中には林立している墓碑を見下ろすようなかたちで、二基の墓碑が立ってい...

  • 2012年5月4日

    第8講 志賀の里 第2回「東高寺」

    曹洞宗、東高寺は元亀二年(一五七一)の創建である。本尊の薬師如来は、病難救済と安産加護の仏様として崇拝をうけている。聖徳太子が彫刻をされたものといわれている。薬師如来は、近江の国、志賀の里に安置されていて、かの地の人々の厚い信仰を...

  • 2012年4月27日

    第8講 志賀の里 第1回「林泉寺」

    田幡城の跡地(金城小学校、校門の側に林泉寺跡の碑がある)に、熱田の田中の地にあった永泉寺が移転してきたのは、享保十二年(一七二七)のことである。田幡城の跡地は、原田佐忠の別荘地であったが、彼の熱心な勧請によって、裁判までも起こして...

  • 2012年4月20日

    第7講 下飯田の昔 第6回「清蓮寺」

    一本の道を隔てて、下飯田の町は様相を一変させる。道路の北側には高層建築がそびえている。南側には自動車が通ることができないような路地をはさんで、昔ながらの家並みが続いている。道の北側の地には、明治から大正にかけて田園地帯を埋めたてて...

  • 2012年4月13日

    第7講 下飯田の昔 第5回「天王社」

    観音寺の門前に小さな社が祀られている。愛知県の各地に見られる、津島神社から勧請した牛頭天王を祀る社だ。流行病にかかったら一家全滅、村中全滅となってしまう。牛頭天王は流行病から人々を護る神として崇拝をうけた。 村を病気から護っ...

  • 2012年4月6日

    第7講 下飯田の昔 第4回「観音寺」

    いかにも下町といった風情のただよう下飯田の町の中に、ひっそりとたたずんで建っている観音寺の歴史は古い。『北区誌』(昭和三十九年刊)には、「むかしは安国寺といって、聖武天皇が国家安穏、諸民の安福祈願のために建てられた安国寺の一つであ...

  • 2012年3月30日

    第7講 下飯田の昔 第3回「六所社」

    今でこそ住宅地となっている下飯田の地であるが、昔はのどかな田園地帯であった。春にはあげひばりが舞い飛び、秋には水鶏の鳴き声が聞こえてきた。下飯田の村の中を御用水、黒川、大幸川、前の川が流れていた。しかし、戦後、御用水は遊歩道となり...

  • 2012年3月23日

    第7講 下飯田の昔 第2回「成福寺」

    御用水跡街園の中を流れる堀川に瑠璃光橋が架かっている。長さは十三・五メートルの短い橋であるが、幅は十七メートルもある。御用水跡街園の中では、夫婦橋についで大きな橋だ。今では車が何台も行き交うなんでもない橋になっているが、かつては、...

  • 2012年3月16日

    第7講 下飯田の昔 第1回「川上絹布跡」

    「ビョウキ スグキテホシイ」鏡台の前に座り、貞奴は福沢桃介からの電報をじっと見つめていた。名古屋に腰をすえて事業を始めた桃介は、これからの人生を共に歩むのは貞奴しかないと考え、舞台の上に立っている貞奴に、無理を承知で電報をうったの...

  • 2012年3月9日

    第6講 稲置街道から御成道へ 第8回「刎ねた首まつる─御首社」

    この地に伝わる山伏塚について、『尾張名陽図会』は、次のように伝えている。 むかしこの辺山野にて有りし時より言ひ伝ふ。今、長久寺境内に入りしといへど、定かならず。ある言ふ、長壁筋の東の屋敷の庭に大いなる松有りしが、土中より至っ...

  • 2012年3月2日

    第6講 稲置街道から御成道へ 第7回「火の用心をする不動尊─豪潮寺」

    一代の傑僧、豪潮の終焉の地が豪潮寺である。 豪潮寛海(一七四九~一八三五)は、肥後国、玉名郡山下村の生まれ。一食一菜の厳しい修行をつんだ天台宗の僧で、柳原長栄寺を開山した。文化十四年(一八一七)の春には、知多郡岩屋寺の住職も...

  • 2012年2月24日

    第6講 稲置街道から御成道へ 第6回「天狗ばやしのひびく―片山神社」

    尾張名陽図会』は、片山神社を次のように記している。 これは蔵王権現なり。延喜内にして『本国帳』に従三位片山神社とあり。 ある記に、祭神安閑天皇なる由。蔵王権現は往古より在せりとあり。また言ふ、和州芳野山蔵王権現と御同体にて...

  • 2012年2月17日

    第6講 稲置街道から御成道へ 第5回「火あぶりになる火つけ坊主―久国寺」

    久国寺は慶長年間(一五九六~一六一五)に、徳川家康の守護仏を、三河の法蔵寺からもらいうけ、それを本尊として建立された寺である。寛文三年(一六六三)に、現在の地に移った。徳川家との関係から、この寺が尾張藩主の葬儀のときには棺休みの場...

  • 2012年2月10日

    第6講 稲置街道から御成道へ 第4回「母恋し―尼ケ坂・坊ケ坂」

    片山神社から御成道へ下る坂道を坊ケ坂、片山神社から西北へのびる坂を尼ケ坂という。 『感興漫筆』の中に、次のような一節がある。 むかしより坊が坂、あまが坂といふ処、変化の物出しよし、世の人言ひふらししが、今は都となり金城...

  • 2012年2月3日

    第6講 稲置街道から御成道へ 第3回「清正の手形石―蓮池地蔵」

    江戸時代、志水町の北に蓮の花が咲く大きな池があった。寛文年間(一六六一~一六七二)に埋め立てられ田圃となった。蓮池新田と呼ばれていた。また道路の傍には、農家が何軒か建って、その地は池町とよばれた。通りから、一目で城そびえたつ名古屋...

  • 2012年1月27日

    第6講 稲置街道から御成道へ 第2回「八人の王子を祭る―八王子神社」

    高力猿猴庵の『尾張年中行事絵抄』に、八王子社の祭礼の図が描かれている。 神前の御手洗池の中に高い台が建てられている。台の上には、山が作られ提灯が数多くかざられている。まばゆいほどの灯りだ。提灯には銀杏の葉がつけられている。八...

  • 2012年1月20日

    第6講 稲置街道から御成道へ 第1回「粟稗の貧しくもあらず―解脱寺」

    名古屋の都心、栄町に白林寺という臨済宗の閑静なたたづまいの寺がある。犬山城主成瀬家代々の菩提所である。 江戸時代、この白林寺の二代目住職全用和尚と成瀬家二代目当主の正虎との間で悶着が起こるという出来事があった。成瀬家で不祥事...

  • 2012年1月13日

    第5講 干支の神様『羊神社』とその界隈 第10回「夫婦橋 辻地蔵」

    大正時代の始めの話です。 楠村の百姓利兵衛は、大八車に野菜をいっぱい乗せて、今日も朝早く家を出ました。朝もやがたちこめています。 「しの、さあでかけるぞ」女房のしのに利兵衛は声をかけて、車をひき始めました。車のあとをしのがお...

  • 2012年1月6日

    第5講 干支の神様『羊神社』とその界隈 第9回「干支の神様 羊神社」

    十二年に一度だけ大勢の初詣客を集める神社があります。辻町にある羊神社です。 ふだんはひと気のない狭い神社に、人があふれるのは羊神社という珍しい名前からでしょう。 なぜ、羊神社という名前がついたのか。 天保十二年の辻村村絵図を...

  • 2011年12月30日

    第5講 干支の神様『羊神社』とその界隈 第8回「秀吉の影武者 腕塚」

    天正十年(一五八二)六月元日、豊臣秀吉は、織田信長が本能寺で明智光秀に討たれたの報を手に入れ、備中(びっちゅう)高松から陣をといて、姫路城に帰着しました。 十三日には四万人の軍隊で、光秀が陣をひく、山崎に向かって光秀の軍を攻めたて...

  • 2011年12月23日

    第5講 干支の神様 第7回『羊神社』とその界隈「神功皇后の石」

    日本最古の歴史書である『古事記』に載っている二つの伝説の地が堀川端にあります。倭建命の白鳥伝説の地は熱田区に、神功皇后の新羅遠征の伝説の地は北区にあります。神功皇后の伝説が残っているのは、北区安井町の別小江(わけおえ)神社です。神...

  • 2011年12月16日

    第5講 干支の神様『羊神社』とその界隈 第6回「わが子の帰り待つ 日待地蔵」

    母親は大ぜいの人に、五目飯を茶わんにいっぱい盛ってくばり始めました。十四歳になったばかりの兼継は、緊張して顔をまっ赤にしながら、五目飯を食べています。兼継のかたわらで、にこにこ笑いながら夫の重継は、わが子の顔をながめています。大ぜ...

  • 2011年12月9日

    第5講 干支の神様『羊神社』とその界隈 第5回「三つの神社のある丘 白龍神社」

    赤い鳥居が何本も建っています。鳥居をくぐりぬけるとお福稲荷(いなり)があります。戦争前には大勢の参拝客を集めていたという神社です。 お福稲荷の下の道を、さらに奥に進んでいくと、ほら穴があり、そこにもお稲荷さんが祭ってありました。...

  • 2011年12月2日

    第5講 干支の神様『羊神社』とその界隈 第4回「志賀の源吉」

    東志賀村の百姓、源吉は今日も川にきて石を探しています。 石はさまざまな表情をしています。丸い石、四角い石、長い石、かたちだけでもいろいろな種類があります。青い石、赤い石、白い石、色もさまざまな種類があります。 源吉は、気に入っ...

  • 2011年11月25日

    第5講 干支の神様『羊神社』とその界隈 第3回「安栄寺の六地蔵」

    墓場の片すみに立っている六地蔵をよくみかけます。 仏教の考え方では、人間は死ぬと六道(ろくどう)のいずれかに、生前の行いによって、行くのだそうです。生きている時、悪い行ないをした人は、地獄におちていく人がいます。やせ細って、のどが...

  • 2011年11月18日

    第5講 干支の神様『羊神社』とその界隈 第2回「児子宮(ちごのみや)」

    『名古屋市史』によりますと、児子宮はもともとは児の宮、あるいは児の御前社とよび錦神社の東、西志賀村にありました。 安永年間(一七七二~一七八〇)より、尾張藩主が何度も、この神社に参拝しました。修理費などを与えました。神社からは御...

  • 2011年11月11日

    第5講 干支の神様『羊神社』とその界隈 第1回「飛びこみ地蔵」

    今から百二十年ほど昔の明治の中頃のはなしです。 今でこそ人家がぎっしりと並んでいますが、明治の時代の志賀の里は、のんびりとした田舎の村でした。村の中には、小さな川がいくつも流れています。夏ともなれば蛍がとびかう、それはのどかなと...

  • 2011年11月4日

    第4講 名古屋の忠臣蔵 第6回「早水藤左衛門の弓の師─筒井町」

    浅野内匠頭が吉良上野介に刃傷におよび切腹を命ぜられたことを赤穂の大石内蔵助に最初に注進したのは早水藤左衛門満尭であった。 萱野三平と共に駕籠を乗りつぎ、一五五里(約六百二十キロ)を四日間で走破した。普通は十七日間かかる行程を、わ...

  • 2011年10月28日

    第4講 名古屋の忠臣蔵 第5回「『鸚鵡籠中記』の忠臣蔵―主税町」

    元禄十六年(一七〇三)二月四日、無事、吉良上野介の首をはね、主君の仇を報じた大石内蔵助は、細川越中守の屋敷で切腹をした。行年四十五才である。 『鸚鵡籠中記(おうむろうちゅうき)』の作者、朝日文左衛門は、この年、三十才、御畳奉行で...

  • 2011年10月21日

    第4講 名古屋の忠臣蔵 第4回「近松勘六・奥田貞右衛門―本龍寺」

    近松茂矩の『昔咄』の中に次のような記述がある。 内匠頭殿に予が麁流の者多く居たりし。大変の時、近松勘六・弟奥田定右衛門兄弟は忠義全ふして死せり。其外近松貞六・同新五などは、さんざん臆病をかまへて逃走り、氏族の面をけがしぬ。剰...

  • 2011年10月14日

    第4講 名古屋の忠臣蔵 第3回「源五右衛門をとりまく人―乾徳寺」

    忠臣蔵の数々の名場面のうちの一つに、片岡源五右衛門が、田村右京大夫邸で浅野内匠頭と今生の別れをつげる場面がある。 テレビや映画では、桜の花がしきりに散る中を、内匠頭が廊下を通りすぎてゆく。よびとめられて庭を見ると桜の木の下に片岡...

  • 2011年10月7日

    第4講 名古屋の忠臣蔵 第2回「片岡源五右衛門名古屋の別れ―高岳院」

    高岳院という寺の名前は、家康の八男、仙千代の法号に由来している。『那古野府城志』によれば、慶長五年(一六〇〇)三月七日に亡くなった仙千代を甲府の教安寺に葬り、高岳院という院号をつけたと記してある。 『金鱗九十九之塵(こんりんつく...

  • 2011年9月30日

    第4講 名古屋の忠臣蔵 第1回「仮名手本忠臣蔵」

    赤穂浪士の討ち入りが圧倒的な人気で受け入れられたのは、竹田出雲、三好松洛、並木千柳によって作られた浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』が寛延元年(一七四八)竹本座で上演されてからである。 『天保会記』の中に、忠臣蔵について論じた文がある。 ...

  • 2011年9月23日

    第3講 七墓巡礼歌のみち 第17回「ひさやをつけてそ人した久屋町―金毘羅宮」

    久屋町の町名由来を『金鱗九十九之塵(こんりんつくものちり)』は、次のように記している。 慶長年中清須の府にて何と云町より引越、当地へ来りしや未詳。其後寛永の頃君主敬公此町御通り被遊候節、町名は何と云ぞと御尋に付、干物町と申由...

  • 2011年9月16日

    第3講 七墓巡礼歌のみち 第16回「こよひお前に大津町―大津橋」

    京町より杉の町迄を云。むかし近江国大津の人、清須に来住し故の名なり。当地に移とも旧号を呼し也。 と『尾張名陽図会』は、大津町の町名由来を記している。 織田信長の居城する清須に、四郎左衛門という人が大津からはるばるとやってくる。...

  • 2011年9月9日

    第3講 七墓巡礼歌のみち 第15回「いつはりいはぬ本町―本町公園」

    東西の中心の道路が広小路ならば、南北の中心道路は本町通であった。名古屋の街と熱田の宿とをつなぐ道路で、この道を多くの人が往来した。 戦前には、服部時計店の時計が通りにそびえ、しゃれた街路灯が、通りを照らしていた。名古屋で最初に舗...

  • 2011年9月2日

    第3講 七墓巡礼歌のみち 第14回「金銀みつる長者町―はずれ灯籠」

    長者町といえば、繊維問屋街の代名詞として使われるほど、長者町通の両側には織物問屋の店が軒を並び、いつも活気に満ちている。 一宮、尾西、江南、津島と名古屋の近郊には、織物産業で名をはせた街が数多くあり、生産量もけた外れに多い。近郊...

  • 2011年8月26日

    第3講 七墓巡礼歌のみち 第13回「をいたる奴もつまらねど長島町―明倫堂跡」

    長島町は、片端通から三ツ蔵通までの南北道路長島町筋の北端にある町で京町筋と杉の町筋の二丁をさす。南は島田町、西は桑名町、東は上長者町に接する。 『那古野府城志』には、 役銀一貫六百七十八匁。慶長中(一五九六~一六一四)爰に遷り...

  • 2011年8月19日

    第3講 七墓巡礼歌のみち 第12回「出船入船桑名町―青木宅」

    『那古野府城誌』には、 桑名町のことを 役銀二貫二四匁、桑名町通り京町より杉ノ町までをいふ。慶長年中清須北市場より此に遷す。仍て名とす。井深三丈余、水清、土赤土砂ねば交り。 御祭礼 湯取神子 寛永元年に囃子物初る。万治元年換...

  • 2011年8月12日

    第3講 七墓巡礼歌のみち 第11回「仕度もしたき茶屋町―茶屋新四郎宅址」

    『金鱗九十九之塵(こんりんつくものちり)』には、茶屋町の町名由来を次のように記している。 慶長年中、御城下町割の最初より、茶屋長意、当所に屋敷を構へ居住しける。故に号茶屋町。 茶屋町は、町内に呉服商人中島新四郎(茶屋長意)が住...

  • 2011年8月5日

    第3講 七墓巡礼歌のみち 第10回「常もにぎあふ広小路―柳薬師跡」

    『金鱗九十九之塵(こんりんつくものちり)』は、広小路を次のように記している。 此町東西長くして、西は長者町より東は久屋町筋に至り、地形広々たる故に、広小路と号く。南北の町は八筋に通じ、むかしは尋常の町にして、西の方は堀切筋と...

  • 2011年7月29日

    第3講 七墓巡礼歌のみち 第9回「酒の肴にかばやき町―ビルの谷間の長屋」

    蒲焼町は本重町筋の南、御園町筋より大津町筋に至る九丁の東西道路の俗称で、正式の町号ではない。 蒲焼町の町名由来については、各種の説がある。 『金鱗九十九之塵(こんりんつくものちり)』は、次の説をあげている。 此蒲焼町の町名は...

  • 2011年7月22日

    第3講 七墓巡礼歌のみち 第8回「損はたたねと本重町―鶴重町と本重町」

    『那古野府城志』は、本重町の町名の由来を、次のように記している。 此町清須に於て新町と号、治工三左衛門といへる者爰に住、斯人伊勢大神宮へ謁する事凡廿三度に及ぶ、一夜夢想に仍て、銘を鶴重と改む、故に鶴重町と云。慶長年中此に移、...

  • 2011年7月15日

    第3講 七墓巡礼歌のみち 第7回「玉を入れおく袋町―福生院」

    袋町の町名由来を『金鱗九十九之塵(こんりんつくものちり)』は、次のように記している。 当袋町の儀は、清須越にて清須本町小塚田所の内、袋の内と申所より引越来りし所、此節此地の伝馬町通りにも可相成土地に御目立是有し処、西の方に広井八...

  • 2011年7月8日

    第3講 七墓巡礼歌のみち 第6回「人馬つめおく伝馬町―札の辻」

    堀川より東へ七間町までと、七間町より東へ北片側伊勢町までの間が伝馬町の区域である。 町名の由来について『金鱗九十九之塵(こんりんつくものちり)』は次のように記している。 当町を伝馬町と号することは、清須越の町名にて、且清須の...

  • 2011年7月1日

    第3講 七墓巡礼歌のみち 第5回「ちらりちらりと桜町―桜天神社」

    杉の町筋の南にあたる東西道路が桜の町筋、昭和十一年(一九三六)十二月、名古屋駅の新築移転に伴って、東桜町から駅に通じる桜通が新設された。 狭い桜の町筋は一変し近代的道路にと変貌した。桜通りの両側には高層ビルが立ち並んだ。公孫樹並...

  • 2011年6月24日

    第3講 七墓巡礼歌のみち 第4回「桧さわらや杉之町―高岳院」

    杉の町は俗称で、公式の町号ではなく筋の名前である。 江戸時代、杉の町筋は、中橋から東へ緩やかな坂を上り、御園町筋までは、武家の蔵屋敷が続いていた。『尾張名陽図会』によれば、御園町筋より本町筋までは、万屋町の町域を作っていた。(『...

  • 2011年6月17日

    第3講 七墓巡礼歌のみち 第3回「どなまぐさいが魚の棚―河文」

    魚の棚と呼ぶのは、町の名前ではなく、筋(道)の名前である。江戸時代、魚の棚筋には、三つの町があった。西端の車ノ町は、桑名町筋と木挽町筋との間の四丁、まん中に位置する、小田原町は桑名町筋と本町筋に挟まれた三丁、東端の永安寺町は本町筋...

  • 2011年6月10日

    第3講 七墓巡礼歌のみち 第2回「にほいも高き京町―少彦名神社」

    『金鱗九十九之塵(こんりんつくものちり)』は、京町の町名由来を次のように述べている。 当町、名を京町と申候事は、在清須の節より斯申候。清須本町の近所、京町と申所田畑に成候へば、今字に京町と取扱申候。扨京町と名付候旧緒の儀、慶長十...

  • 2011年6月3日

    第3講 七墓巡礼歌のみち 第1回「八十七番 花の名古屋の町割」

    江南、村久野の地に部落の人々が集う、小さな喫茶店がある。村久野を調べる用事があり、何げなくその喫茶店に入った。カウンターに座り土地の人々とコーヒーを飲んでいた。話がたまたま、私財を投げうち、家業を傾けて村久野を研究された、今は亡き...

  • 2011年5月27日

    第2講 前津七不思議めぐり 番外「雲龍水引─下前津」

    文政七年十二月二十五日の午後三時頃、飴屋町下筋から出火した。またたく間に、経堂筋を焼き払い、中筋から不二見まですべて灰塵に帰してしまった。焼失地域は南北は約五丁(五五〇メートル)、東西は五、六丁に及んだ。 火事の凄まじさを表...

  • 2011年5月20日

    第2講 前津七不思議めぐり 番外「一目連─鶴舞公園竜ケ池」

    中部電力と神頼みという興味深い一文が『怪異の民俗学2 妖怪』のなかに載っている。 ここでおもしろいのは名古屋に本社がある中部電力である。その近代的な本社ビルの中核にあり、コンピューターで武装された中央給電指令所の一室に、神棚...

  • 2011年5月13日

    第2講 前津七不思議めぐり 第7回「願かけ七本松─七本松神社」

    七本松神社の碑の横には二代目七本松という文字が刻まれている 七本松神社という小さな神社が鶴舞公園の近くにある。鳥居の傍らに二代目七本松という石碑が建てられている。松の木がどこにあるかと狭い神社の中を見わたしても、それらしい木...

  • 2011年5月6日

    第2講 前津七不思議めぐり 第6回「卯木─宇津木橋」

    ものは百年使用していると魂がこもり、霊がつくという。樹木も、長寿の木には霊がこもっている。 樹霊にまつわる伝記は数多く残っている。秀吉が朝鮮征伐のために白山神社の神木を切らせたら、木から血がしたたり落ちてきて、切るのを中止したのは...

  • 2011年4月29日

    第2講 前津七不思議めぐり 第5回「精進川の霊─乗円寺」

    牛巻町の新堀川の左岸に、平成四年の三月に名古屋市によって建立された新堀川の碑が百日紅の木の下に立っている。その碑文には、 新堀川は昔、精進川といわれていた。精進とは仏教用語であり、熱田では僧都川ともいわれていた。三途の川にな...

  • 2011年4月22日

    第2講 前津七不思議めぐり 第4回「飛薬師─清水寺」

    林通勝は、織田家譜代の家臣だ。信長の父信秀が亡くなった後、その居城の末盛城は信長の弟の信行が守っていた。柴田勝家と林通勝が信行の補佐役であった。 信長は粗暴で奇異な行動が多く、勝家や通勝等の重臣は、信長を廃嫡して弟の信行を織...

  • 2011年4月15日

    第2講 前津七不思議めぐり 第3回「蜘蛛の糸─福恩寺」

    明治二十一年、大正七年、昭和二十一年、平成十二年と四枚の地図を机の上に置いて、前津一帯の変遷を調べている。 明治二十一年の地図を見てみると、前津台地の東は田畑ばかりの田園地帯が続いている。大正七年になると上前津から鶴舞公園にと岩井...

  • 2011年4月8日

    第2講 前津七不思議めぐり 第2回「天狗囃子─長松院」

    新堀川に架かる記念橋の傍らに、曹洞宗の古刹、長松院がひっそりと建っている。ビルの壁にへばりつくようにして、聳えている何本ものメタセコイアが何か痛ましい感じがする 長松院は、もともとは春日神社の東隣の地にあったが、大津町通りが開修さ...

  • 2011年4月1日

    第2講 前津七不思議めぐり 第1回「オカラネコ─大直禰子神社」

    長松院の所在地を『尾張志』には「オカラネコにあり」と記している。 また丸田町交差点の南西の角近くには「西 矢場地蔵、おからねこみち」と記した道標が残っている。今では知る人も少ないが、江戸時代には、オカラネコが近郊に知られた神社であ...

  • 2011年3月25日

    第1講 古渡七塚めぐり 第7回「山伏塚」

    榊の森、鶯の森と呼ばれていた金山の白山神社 『那古野府城志』には、山伏塚を次のように記している。 昔、刑罰に逢し跡の印となん。町家と畠の境に小さき塚あり。印に榎一本残れり。或時主じかしこそたち、爰を切、塚を縮めける夜、...

  • 2011年3月18日

    第1講 古渡七塚めぐり 第6回「鎧塚」

    榎木白龍大神に、文が欠落していて、何が書いてあるのか判読に苦しむ石碑がある。判読に苦しむというより、判読できない石碑と言った方が正しいであろう。 『追遠報本』といわれる石碑である。欠けている部分を補った冒頭の部分は、次の通りである...

  • 2011年3月11日

    第1講 古渡七塚めぐり 第5回「義次塚」

    鬼頭氏の祖先の由来を示す記述が『金鱗九十九之塵(こんりんつくものちり)』に載っている。 古しへ織田信秀の国司たりし頃かとよ。此所に鬼頭宗左衛門と云う者在住し、今も猶其末葉当村にありとぞ。且此鬼頭氏の祖の来由を尋るに、鎮西八郎...

  • 2011年3月4日

    第1講 古渡七塚めぐり 第4回「為朝塚」

    英雄の死は、誰しも信じたくはない。英雄は不死鳥だ。英雄の末期が悲惨であればあるほど、人々は英雄の生命が不滅であることを願う。平泉で討ち死にした義経は、実は生き残って蝦夷の地に渡ったという伝説が残っている。 あるいは、義経は蒙...

  • 2011年2月25日

    第1講 古渡七塚めぐり 第3回「金塚」

    「金は天下の回り持ち」という格言がある。金銭は一人の所にとどまってはいない。貧しいものも、いつか金銭に恵まれるという意だが、私のような年中貧乏なものはその実感を味わったことは一度もない。とかく「金が敵」の世の中である。 金を手に入...

  • 2011年2月18日

    第1講 古渡七塚めぐり 第2回「片葉塚」

    全国各地に伝わっている七不思議の中で、最も頻繁に登場するのは片葉の葦であろう。遠野、塩原、越後、上越、奈良田(山梨)、遠州、東京の本所深川と数えあげれば際限がないほど、各地の七不思議の中に、片葉の葦は入っている。 愛知県では...

  • 2011年2月11日

    第1講 古渡七塚めぐり 第1回「鎌塚」

    『那古屋府城志』には、義次塚、為朝塚、山伏塚、鎧塚、力子塚(金塚)、片葉塚、鎌塚を古渡七塚としてあげている。 『俳諧古渡集』は、古渡七塚を次のように説明している。 惣して此むらに、七塚有といひ伝へたり、為朝塚、山ふし塚、よろ...