沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第11講 柳原から土居下 第5回「徳高き活仏の寺──長栄寺」

徳高き活仏の寺──長栄寺

長栄寺 山門

長栄寺 山門

国道四一号線をはさみ、豪潮寺と呼ばれる寺が東側の大杉の地と西側の柳原の地にある。柳原の豪潮寺は長栄寺のことである。

長栄寺は、もともとは愛知郡東郷町諸輪にあった寺で、養老年間(七一七~七二三)に泰澄が建てたものである。野間の大坊、諸輪の大坊と呼ばれ、尾張二大坊と称された。その後、廃寺になっていたが、文政六年(一八二二)、豪潮が尾張藩主徳川斉朝の命を受け、現在の柳原の地に移した。豪潮があまりにも有名なので、豪潮寺と呼ばれていた。

豪潮は寛延二年(一七四九)六月十八日に熊本県玉名郡山下村に生まれた。宝暦五年(一七五五)の九月、六歳で得度をした。  十六歳で比叡山に登り、十数年間修行に励み、故郷に帰り寿福寺の住職となった。住職となった翌日、米八十俵を出して、貧民に施した。安永六年(一七七七)、二八歳の時には、寺内にある酒器を集めて、臼の中に投げ入れ、すべて砕いてしまった。蚊帳を用いず、一食一菜の厳しい修行の生活をしていた。

豪潮を崇敬する四国や九州の大名が数多くいた。光格天皇、聖護院宮も豪潮に帰依していた。尾張藩主の斉朝が病気になった。医師の治療も、修験者の祈祷も効験がなかった。万松寺の住職、珍牛は、豪潮と交わりがあった。藩主の病気の加持を豪潮に頼むことを勧めた。藩主は、細川候に依頼し、豪潮を招こうとした。九州の諸侯は、これを聞いてたいそう驚き、武器に訴えても止めようとした。近衛公と一橋公が調停をして、三年間の約束で尾張の国に来ることになった。

文化十四年(一八一七)名古屋に来た豪潮は万松寺に入った。登城し斉朝の病気の加持をして、たちまちのうちに治してしまった。約束の三年間、万松寺に停まり、熊本に帰ることを願ったが、斉朝は許さない。斉朝は、江戸の市ケ谷の藩邸にも豪潮を伴った。尾張に帰り知多郡内海の岩屋寺の住職になったが、後長栄寺に入った。

豪潮は書画をよくした。『葎の滴』に次のような逸話が載っている。

豪潮律師は、書や画を書く部屋を作り、筆や硯を置き、毛氈を敷いていた。揮毫を請う者がいるとすぐに書き始めた。  誤字、脱字があっても、傍らに書いて、書き直すことはしなかった。  律師は、淡く墨を用いた。天子より拝領した墨を生涯使おうとしたので、その減るのを恐れて淡く墨を用いて書いた。

豪潮は天保三年(一八三五)七月三日、八七歳で亡くなった。豪潮を慕う人は多く、活き仏といわれた。

長栄寺 境内

長栄寺 境内

長栄寺の二代目住職は豪潮の弟子の実戒亮阿である。越後の礪波郡佐野の生まれで十八歳の年に比叡山に登った。三十歳になるまで釈迦堂の縁側に坐って修業をしたという。その後も金峯山で断食六十日という荒行をしたり、紀伊天川の岩の上に座って修行に励んだという。

豪潮の後を継ぎ、名僧として尊ばれた実戒の逸話も『葎の滴』に載っている。

明治五年(一八七二)二月、知多郡大高村海岸寺で柳原長栄寺の実戒律師の法話があった。  律師が法話をしている七日間、寺の梁の上に大きな蛇がやって来て説法を聴いていた。七日間の法話が終わると蛇は、いずこともなく消えてしまった。

実戒律師の説法は蛇までもが聞きにくるというエピソードである。

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