沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第3講 七墓巡礼歌のみち 第11回「仕度もしたき茶屋町―茶屋新四郎宅址」

仕度もしたき茶屋町―茶屋新四郎宅址

『金鱗九十九之塵(こんりんつくものちり)』には、茶屋町の町名由来を次のように記している。

慶長年中、御城下町割の最初より、茶屋長意、当所に屋敷を構へ居住しける。故に号茶屋町。

茶屋町は、町内に呉服商人中島新四郎(茶屋長意)が住んでいたので、屋号の茶屋を町名とした。碁盤割最北の東西道路である京町筋のうち長者町筋から本町筋までの一丁。西は大和町、東は両替町に隣接する。享保年間の家数十七、町役銀は一貫一八匁であった。

中島新四郎は江戸の茶屋四郎次郎家の分家にあたり、本家と同様、茶屋の屋号をもち、尾張徳川家の呉服調達をつとめていた。元和年中(一六一五~一六二三)には、幕府の呉服師にも任命された。

茶屋家の創立者は、徳川家康の側近として情報の収集や諸家との調停にあたった中島四郎次郎清延。清延は文禄元年(一五九二)豊臣秀吉から朱印船貿易の特権を与えられ、南海貿易にも従事した。 清延の三男、新四郎長吉が、慶長十九年(一六一四)尾張藩主義直に付けられ、名古屋に来たのが尾州茶屋家の始まりである。

享保十四年(一七二九)五月五日、異国からの珍客、象が本町通りを闊歩して歩いた時には、藩主が茶屋家の屋敷を訪れて、密かに見物をした。 今、茶屋家址には、大学の校舎が建ち、往時の面影をしのぶよすがは何も残っていない。

東京福祉大学・大学院 名古屋キャンパス前に立つ解説板

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戦国期に、支配者層に物資を提供し、支配層からはさまざまな特権を与えられる商人を初期豪商と呼ぶ。初期豪商の代表が、中島茶屋家である。 十七世紀の半ばになると茶屋家のような初期豪商に代わり、財政危機に陥った藩に対し、金銭の調達をする新興商人が台頭してきた。その代表が、茶屋町に店を構えた松坂屋の創立者、伊藤次郎左衛門家である。

伊藤家の初代は、織田信長の家臣、祐道。本能寺の変後、清須で浪人生活を送っていたが、慶長十六年(一六一一)に妻と次男祐基を連れて、名古屋本町に移り、太物商いを始めた。 祐道は、大坂夏の陣に豊臣方に加わり、慶長二十年(一六一五)に大坂に発ち、そのまま行方知れずになってしまった。残された祐基が、次郎左衛門と名を改め、茶屋町で間口四間、奥行き二〇間の呉服小間物問屋を開いた。「現金売り掛け値なし」の商売で、成功を収め、今日の松坂屋の基礎を築いた。

戦前、茶屋町には伊藤家に忠勤を尽くす家の子郎党の住居が建ち並んでいたというが、戦火に見まわれ、今は跡かたもなくなってしまっている。