沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第17講 黒川治愿の足跡をたずねて 第5回「日輪寺晩鐘──日輪寺」

日輪寺晩鐘──日輪寺

白山神社境内から日輪寺を望む

白山神社境内から日輪寺を望む

※この文章は2004年4月に執筆されたものです。

大正十年、東春日井郡長となった鈴木寿三郎は漢詩を作ることが得意であった。彼に味鋺原八景を詠んだ五言絶句がある。八景の中の一つ、日輪寺晩鐘は次のような句だ。

亭々日輪寺  庭樹帯レ雲重  斜照将二西落一  殷々鳴二梵鐘一

見上げるような日輪寺、寺の境内は昼なお暗い。木の間から夕日がわずかにさし込んでいる。鐘楼から、鐘の音が味鋺原にひびき渡っていく。

『春日井の寺院』(春日井市教育委員会)は日輪寺のことを次のように紹介している。

昔は天台宗山門派密蔵院末。現在は延暦寺末。本尊は地蔵菩薩である。本尊は往昔篠木庄青龍山妙覚寺(廃寺)に安置されていたが、天文年中洪水のために流出、数年間漂泊したという。世人はこれを見て朽木のごとく看過して字十五町に小草庵を結び、それを地蔵堂と称し、安置した。万治三年(一六六〇)に至り、僧栄盛がこの本尊をもらいうけ、堂宇を建立し、本尊とした。これが日輪寺のはじまりである。維新前は日輪寺の住職は白山神社の別当を兼務していた。天台座主は中村勝契大僧正の育った寺である。

日輪寺境内

日輪寺境内

文中にあるように日輪寺は白山神社の別当寺(神仏習合説に基づいて神社に設けられた寺院)であった。明治維新の神仏分離令によって、別当の役割は解かれたが、白山神社との関係は今も続いている。

日輪寺の仮堂(明治二十四年、濃尾大地震で本堂が被害にあった時、仮に建てられた建物)には白山大権現が祀ってある。今も、秋の大祭の時には、神社の役員が日輪寺に来て、白山大権現に御神酒と御供物を献上するという。

江戸時代、寺の参道は、今の進路を横切り白山神社の参道に続いていた。今、山門にある江戸時代末期の常夜灯は、白山神社の参道に接するところにあったという。

白山神社の参道に接するところにあったという常夜灯。天照皇大神宮の文字が彫られている

白山神社の参道に接するところにあったという常夜灯。天照皇大神宮の文字が彫られている

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