沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第2講 前津七不思議めぐり 第5回「精進川の霊─乗円寺」

精進川の霊─乗円寺

牛巻町の新堀川の左岸に、平成四年の三月に名古屋市によって建立された新堀川の碑が百日紅の木の下に立っている。その碑文には、

新堀川は昔、精進川といわれていた。精進とは仏教用語であり、熱田では僧都川ともいわれていた。三途の川になぞらえた「おんばこさん」の伝説や、天正年間、戦で亡くなった息子を供養するために母がつくった「裁断橋」のいわれを思いおこさせる川である。また、熱田の社人が鈴の宮(元宮)の傍らを流れるこの川でみそぎをしただけあって水もきれいであった。水源は古井村(現在の今池付近)で、前津小林村、御器所村を南に流れ、熱田(宮)で堀川と合流していた。川幅が狭く曲がりくねった流路は、洪水が多発し、舟運にも不便であったため、尾張藩は文政十三年に改修しようとしたが、財政不如意により中止せざるを得なかった。明治十六年大規模な改修案が建議され、多くの曲折を経て、ようやく明治四十三年に完工し、翌年「新堀川」と改称された。この工事で掘った土は熱田工厰、鶴舞公園などの敷地の造成や沿岸低湿地の埋め立てに用いられた。近年、流域の都市化が進み、雨水の流入が増えたため洪水を防ぐよう、昭和六十一年、堀留東に「若宮大通調節池」が造られた。これからも新堀川は都会と共に生きていくのである。

と記されている。 碑文にも記されているように、新堀川は名古屋の中心部を流れる都会の川だ。悪臭や汚水という都会の川のかかえる問題点が最も顕著に表れている川かも知れない。 都会の残滓を運びながら流れる新堀川の川面を見つめながら、一人の先人のことを考えていた。

碑文に「明治十六年大規模な改修案が建議され」とあるが、その新堀川の改修を建議した人のことだ。 新堀川の改修を建議したのは、時の名古屋区長の吉田禄在だ。 改修案は明治二十九年、市会で可決された。しかし、その後工事はなかなか進捗しなかった。明治三十七年、日露戦争勃発と共に熱田に造兵廠が建設されることになった。新堀川改修工事による土砂を造兵廠の埋め立てに使うということで、三十八年から工事にかかり明治四十四年、六年越しの工事が完成した。

乗円寺境内。右側のお地蔵様が新堀川の掘削工事で亡くなった人や川に身を投げた人を供養するお地蔵様

乗円寺境内。右側のお地蔵様が新堀川の掘削工事で亡くなった人や川に身を投げた人を供養するお地蔵様

工事のために殉職した人も多くいた。工事のために死んだ人ばかりではない。自ら新堀川に身を投げる人も多く出た。川の底が泥土で、川にはまったら浮かばないために、新堀川が自殺の場所として選ばれたのだ。 『前津旧事誌』に山田秋衛は次のように書いている。

此工事起こるや工区を四句に別ちしため請負者を異にせる区境に於ては土工の紛争しばしば起り、ために土運車に抜身の日本刀を突立て或は腹巻の間に短刀を包むなど、工事場の土工間に殺気満ち満ちて一時は付近住民ら安き心なく、婦女子らの通行杜絶せる事ありたり。尚竣功後此川に入りて水死するもの多かりしかば、これ精進川といふ名の祟りなりとて(仏教にては死者のあるとき又は仏の命日には精進する慣しなるより連想して)新堀川と改められしが、かくても尚入水者絶えざりしかば前津辺にてもれ「死に堀川」なりと噂せり

気のたった工事従事者であふれる現場の殺伐とした情景が思い浮かんでくるような記述だ。精進川では縁起が悪いと新堀川と改称したが、自殺者はいっこうに減らない。「新堀川」ならぬ「死に堀川」とまで呼ばれるようになった。 新堀川で、自殺者が相次ぐ事件が起った。まことしやかな噂が広まった。『大井学区町の沿革誌』に記載されている話だ。

新堀川の工事中、土工の某が瀕死の重傷を負った。なぜ、自分はこんな事故で死ななければならないのか。自分の運命と世の中を呪った土工は「自分は、あの世から、この川で千人の人を死なしてやる」と言って息を引き取った。その後、何人もの人が新堀川に魅せられるようにして生命を断った。

乗円寺の住職中井俊童は、土工の霊を慰めるために近在の人から浄財をつのり、一体の地蔵菩薩を建立した。明治四十三年のことである。 現在も地蔵菩薩は乗円寺に鎮座している。なお、新堀川沿いの川端、宇津木橋の南側に瀕死者の霊を慰める碑が明治四十三年に建立され、現在も地元の人の手によって守られている。

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