沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第16講 上飯田界隈 第3回「黒川治愿と林金兵衛──三階橋」

黒川治愿と林金兵衛──三階橋

朝宮公園のそばにある木津用水改修之碑

朝宮公園のそばにある木津用水改修之碑

※この文章は2004年2月に執筆されたものです。

春日井市の西部、八田川と新木津用水が合流するところに朝宮公園がある。公園に沿うようにして新木津用水が流れている。朝宮公園の傍らに黒川治愿を顕彰した木津用水改修之碑が建っている。この碑は戦後新しく建てられたものだ。戦前に、この地にあった碑は、銅材であったために、戦時中、供出をされてしまった。碑文は漢文で、木津用水改修の経緯が詳しく書かれている。

碑文中の一節に、黒川を開削した部分がある。現代文に直してかかげる。

明治九年に工事が始まった。愛知、春日井二郡の内六六カ村は庄内川の水利を蒙っている。時には水が涸れ、田畑に水が通せない時があった。また汚水が流した土砂が川底に滞っていた。そこで県費三万円に民から三千余円を募り、利水の便をはかり、川底を浚い、木曽川から船を通す目的で、庄内川から堀川に水路を開いた。これを黒川と名づける。
その時、人々は声をはりあげて、この工事を非難した。
現代の政治に、もっとも必要なことは木曽川から名古屋への船路を開くことであるかと。

黒川が開削された時の様子がよくうかがえる文だ。人々は、この工事の完成を喜んでは迎えなかった。侃々諤々の非難がわき起こった。

黒川治愿を顕彰する碑文に、

名之曰黒川。時人嗷嗷譏其無安。政有輾木曽川至名古屋之船路者也乎。

と記されている。黒川開削に対する世人の動向がよく出ている。

なぜ、人々は黒川開削を喜ばなかったのか。それは、上条新田開拓碑に記されているように、地租改定で、人々の関心は税をいかに収納するかにあった。いや、収納できないので、地租改定をいかに回避するかにあった。

朝宮公園の間を新木津用水が流れている

朝宮公園の間を新木津用水が流れている

黒川が開削された明治九年、地租改定を受け入れない農民に対して春日井郡の地租改定係の局長荒木利貞は、米を収穫できないように鎌留めを言い渡した。稲を取り入れることができなくては生活が困窮する。麦の種をまくこともできない。春日井郡の議員長林金兵衛が荒木利貞と交渉し、十二月十八日に鎌留めは解禁になった。

明治十年になると、さらに荒木利貞の地租改定をせまる動きは強引になった。村々を巡回して無二無三に請書を差し出すようにせまった。差し出さない場合は、縄でくくりあげて処分すると脅かした。これに対して、林金兵衛、小原弥平治、林磯右衛門たちは、東京にゆき新政府に請願することにした。しかし、なかなか埒が明かない。地元では数千人の農民が松原神社に集まって祈願した。

また熱田神宮に、金兵衛たちの請願がかなうように参詣しようと人々が三々五々集まり、本町通りに差しかかった時には二三七〇人になっていた。しかし、東京での請願は受け入れられなかった。

明治十一年十月二十五日、明治天皇が名古屋に巡幸した。農民たちは、待ち合わせして集まり、天皇に直訴をしようとした。三階橋に集合し、そろって名古屋に出かける相談ができていた。十一時半には四五千人の農民が集まった。

『林家日記』には当日の様子が、次のように書かれている。

今日ノ御直訴ハ為ニナラサル故見合可申旨相諭候処、中々聞入不申是迄長々ノ間東京迄願上被下今日ニ至リ御聞届無之上ハ幸ヒナルカナ 御巡幸ニ付村民一同カラ御直訴可致云々、数千人ノ人々申立口々ニ付既ニ押ヤブリ候付、止ヲ不得林金兵衛発言ニハ是迄此方初メ尽力候付此上ハドコドコ迄モ可願立今日村民一同カラ御直願候而ハ是迄拙者共ノ尽力モ水ノ泡ニナリ可申、若此上拙者カラ願立相叫サル時ハ村民一同ニ此方共先キ立東京ヘ願ニ罷出可申、今日ノ処ハ先々差延シ呉度、充此願意相叶迄ハ拙者如可ニモ引払不申、拙者ノ命ト家材ヲ村民衆ヘ抵当ニ相渡可申、万一此者共カ不尽力見認メハハ一命ヲ取リナリトモ家ヲ焼キナリトモ勝手次第ニ可致旨迄申出候処、一同左程モ御申聞ハハ今日ノ処ハ速ニ相任セ村民ノ願ハ相見合可申ト相成。

四、五千人の農民の前に立ちふさがり、橋の上で両手をあげて、橋を渡ろうとする農民を阻止する。橋を渡るならば、自分を殺してから渡れと必死になって農民を説得する。林金兵衛の説得が効を奏して直訴騒動は収まった。

矢田川の下には、庄内川から分水した黒川が暗渠の中を流れている。橋の上では、木曽川から名古屋に水を流すより、地租改定に反対だと農民たちが騒いでいる。木津用水を改修するために予定されていた県費は、いちはやく地租改定を受け入れた三河の国にまわされることになった。都築弥厚たちが江戸時代から開削に情熱を注いでいた明治用水の工事が始まった。黒川治愿が工事を統轄した。明治用水が完成し、地元では明治川神社を建立し、私財をなげうって工事を進捗させた都築弥厚たちを生存中であるにもかかわらず神としてまつった。黒川治愿は、明治川神社にはまつられなかった。

役所に対する地元の意識が感じられる話だ。黒川治愿の名は、なぜ忘れられたのか。地租改定の動きと無関係ではないようだ。

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