沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第18講 三階橋より水分橋 第4回「ほとけの誓いおもき石山──石山寺」

ほとけの誓いおもき石山──石山寺

石山寺の山門. 山門脇の祠には三体の古仏がある

石山寺の山門. 山門脇の祠には三体の古仏がある

※この文章は2004年5月に執筆されたものです。

色あざやかな、つつじが咲き乱れている。石山寺の山門をくぐると庭は、別世界のようにはなやかだ。突然、烏がけたたましたく鳴き出した。静寂な境内に、鳴き声が不気味にひびきわたる。何羽もの烏が、いっせいに鳴きたてる。不意の侵入者に、犬が大声で鳴きたてるように、烏が不審者に気をつけよと鳴きさわいでいるようだ。

烏の鳴き声に一瞬たじろいだが、かまわずに山門脇の小さな祠の前にゆく。祠には三体の古仏が安置されている。中央に安置してあるのが馬頭観音で、高さは一二七センチだ。その左側には、高さ八七センチの地蔵菩薩が鎮座している。馬頭観音も、地蔵菩薩も街道沿いに置かれていたものが、寺に移されたのであろうか。右側に置かれているのが、寛政十二年(一八〇〇)銘のあるこぢんまりとした地蔵菩薩。簡単に持ちあげることができれば願いごとがかなう。重くて持ちあげることに難儀をすれば、願いごとがかなえられないという重軽地蔵だ。

三体の古仏が安置されている小さな祠の横には、三十三観音が祀られている。古仏の光背には、番号が記されている。ずらりと並んでいる三十三観音を見ていると、蚊がどこからともなく飛んできた。竹薮の前を通り、墓地に入ってゆく。何体もの古仏が立っている。

明治元年八月二日、この墓地で悲惨な出来事が起こった。矢田川の堤防が決壊し、石山寺に濁流が流れこんできた。墓地に流れこむ大水によって墓がえぐられ、遺体が漂流してゆく。福徳村に流れ着いた遺体は、村の木々の枝にたれ下がった。洪水で漂着した遺体の中には、土葬したばかりの新仏もあった。石山寺の墓地から六十体の遺体が漂流したという。

三十三観音

三十三観音

石山寺は天台宗山門派密蔵院末で、西天山妙行院と号する。天野信景は『塩尻』の中に、石山寺を次のように紹介している。

春部安食庄石山寺の観音、帳を開きしこの寺は江州石山と同じ時に建立、本尊も同木にて興正菩薩の彫刻なり。天台宗の開祖は道円上人なりといふ。寺僧曰く、当時古は五院あり。所謂石山寺・無量寺・福田寺・光蔵寺・光善寺といひし。一旦荒廃して石山寺のみ残り其の余の四院は絶えて、田圃の名となりぬ。此の院内に安置する阿弥陀・釈迦・薬師の大像、地蔵は彼の諸院の本尊なりし。寺境川近く侍る故、度々の洪水に漂没して縁起旧記も伝はり侍らず。

江州石山寺の本尊と同木の十一面観音が本尊であるところから石山寺と名づけられた。寺を開いたのは道円上人である。道円上人は西大寺興正菩薩叡尊の高弟である。叡尊が石山寺の本尊を彫刻した際、同じ木で彫った十一面観音を道円に与えた。道円が、その像をこの道にもたらし、建立したのが石山寺である。この十一面観音は、たびたび開帳されて多くの参詣者を集めた。

数度の矢田川の洪水に見舞われ、寺の古記録は流失し、寺の歴史の詳細は不明だ。かつて瀬古にあり廃寺となった無量寺・福田寺・光蔵寺・光善寺の本尊であった阿弥陀如来、薬師如来、釈迦来(いずれも忠信の作)の三像は、昭和二十年五月四日の空襲により焼失してしまった。本堂には、次の歌が書かれた額がかかっている。

後の世を ねがう心は かるくとも ほとけの誓い おもき石山

石山寺境内

石山寺境内

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