沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第2講 前津七不思議めぐり 第2回「天狗囃子─長松院」

天狗囃子─長松院

記念橋そばにある曹洞宗の古刹、長松院

記念橋そばにある曹洞宗の古刹、長松院

新堀川に架かる記念橋の傍らに、曹洞宗の古刹、長松院がひっそりと建っている。ビルの壁にへばりつくようにして、聳えている何本ものメタセコイアが何か痛ましい感じがする 長松院は、もともとは春日神社の東隣の地にあったが、大津町通りが開修された時に現在の地に移転した。

江戸時代、長松院の北に隠里と呼ばれる地があった。藩祖徳川義直の夫人、高源院が広島の浅野家より入輿した時、その輿をかついで名古屋に来た人たちが住んでいた土地だ。高源院が亡くなった時も、それらの人が葬送の輿をかついだという。 世が代り、明治の時代になると、ひっそりと門をしめた見越しの松の黒塗りの塀の中に、著名人の愛人たちが隠れ住んでいた。

長松院には、天狗囃子の伝説が残っている。『前津旧事誌』に、次のように書かれている。

毎年夏の終りより仲秋の頃まで、南の方に当って笛太鼓の合奏による祭礼囃子聞こゆ。誰一人として此正体を確めたるものなし。明治初年頃長松院にありし雲水鉄崖、利かぬ気の男とて、一夜此天狗囃子の所在を突留めんものと、夜十二時頃より音する方をたよりに南へ南へと赴きしが、行けども行けども囃の音同じ程に聞こえ、遂に井戸田より鳴海近くまで行きしも笛太鼓は依然として止まず、そのうち天明も近づきしかば根気負けして帰りしことあり。此怪音の特色としては一丁行くも一里行くも音響更に変化せず。恰も聴者と常に一定間隔をもって囃し居る如き点にありとす。里人これを天狗囃子と称ふ。

入り口は小さく見えるが門をくぐると広い境内

入り口は小さく見えるが門をくぐると広い境内

この文章を、物語風にして『堀川端 不思議ばなし』の中に載せたので参照して頂きたい。「誰一人として此正体を確めたるものなし」の一文の中に、天狗のなせる怪異がよく表現されている。だいたい天狗そのものを見た人が、誰もいない。人知を越えた不思議な天然現象を、すべて天狗のなせる怪異としたのだ。 大木の倒れる音を聞けば、天狗の木倒しであり、しわがれた笑い声が、どこともなく聞えてくれば、それは天狗の笑いであるという。目に見えるが、正体がわからない。耳には聞えるが、正体が定かではない。正体のわからない不思議なもの、それが天狗である。

祭りや晴れの日の準備ではないが、祭りの印象の記憶とか、祭りの接近への期待といったものが妖怪化したと思われるものがある。深夜にどこからともなく、太鼓や笛の音が聞えてくるという狸囃子。これは山神楽とも天狗囃子とも山囃子ともいう。山口県大畠の瀬戸では、旧暦六月のころに、どことも知れず太鼓の音が聞えるのを虚空太鼓と呼んでおり、狸囃子や天狗囃子も、それぞれ狸や天狗のしわざと考えられている。
人は確かに、深山幽谷に入ってしばしば孤独の境地にさまよい、疑心暗鬼を呼んで、音ならぬ音を耳にすることもあろうし、山の入り組んだ地形には、思わぬ場所からの反響もあって、事実さまざまな物音が、遠く近く聞えることがあるとしても、全国どこでも、これを祭り囃子と断定したのは、偶然とは考えにくい。
祭りや晴れの日が近づくにつれて、来臨したまう神や霊を迎えまつるために、食事をととのえ身なりを改め、内外を清浄にして依り代を準備する。親愛なる存在ではあるが、神を迎えまつるときの身のひきしまるような緊張感は、おそろしいものに対するときの恐怖の感情に、たやすくおきかえられ、迎える神自身はもちろんのこと、準備行動や印象の記憶までが、妖怪化の途をたどったものであろう。
『怪異の民俗学2 妖怪』井之口章次

天狗囃子の伝説が生じる背景を端的に分析している文であるので紹介をした。

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