沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第12講 味鋺界隈 第1回「無限の慈悲のほほえみ──首切地蔵」

無限の慈悲のほほえみ──首切地蔵

四辻脇にそっと建っている首切地蔵の祠

四辻脇にそっと建っている首切地蔵の祠

新地蔵川を渡り、庄内川に向けて歩いて行く。橋を渡ると四辻に出る。四辻の西北の地に、二つの祠が建っている。東の祠にはお地蔵さま、西の祠には味鋺神社から迎えたお礼が祀られている。

ここに祀られているお地蔵さまは、他の地にあるお地蔵さまとは異なっている。三つの部分を接ぎ合わせて出来ているのだ。首から上の部分、そして二つに切断された胴体の部分と三つの部分が接着されているお地蔵さまだ。顔の部分は磨滅をして、目も鼻も口も定かではない。しかし、よく見てみると目も鼻も口もかすかにだが付いているような感じだ。この顔をじっと見つめていると柔和な表情のお地蔵さまが浮かび上がってくる。

それにしても、切断された胴体の部分は、なんとも痛ましい感じだ。お地蔵さまの傍らには、赤い布が巻きつけられた丸いものが置かれている。これも切断された手首と思えなくはない。首が切断され、胴体が切断され、手首が切断されている。それにもかかわらずお地蔵さまの表情は柔和だ。このお地蔵さまは、無限の慈悲をもって衆生を見つめていらっしゃるようだ。

九十センチある石のお地蔵さまを誰が切断したのであろうか。お地蔵さまの前には、名古屋市教育委員会の説明板が建っている。それによれば、この地蔵は首切地蔵、あるいは身代わり地蔵とも呼ばれているという。

首切地蔵、あるいは身代わり地蔵とも呼ばれている

首切地蔵、あるいは身代わり地蔵とも呼ばれている

首切地蔵と呼ばれるようになった由来は、次のようである。

お地蔵さまが祀られているのは、味鋺の一ノ曽だ。一ノ曽の地に郷士(ごうし)(農民で武士の待遇を受けている者)の五左衛門という者がいた。五左衛門の家では、近くの百姓家の娘が家事いっさいをまかされて住み込みで働いていた。娘は、明るくて働き者だ。朝早く起きて、五左衛門の家の近くのお地蔵さまに出かける。お地蔵さまの前で、手をあわせて、長いことお祈りをする。両親の健康と、今日一日の勤めが無事に終わることを祈るのだ。娘は誰からも好かれていた。一ノ曽で娘のことを悪く言う者は、ひとりもいない。それに対して、五左衛門の評判は、すこぶる悪かった。酒を飲むと刀を振りまわして、あばれるのだ。
ある日のことだ。五左衛門の所に城下から侍が遊びに来た。酒の席になった。娘は何度も燗をして座敷に運んだ。そのうち、思わず徳利を盆から落としてしまった。酒が座敷にこぼれる。五左衛門は有無を言わせず、一刀両断に娘を切りすててしまった。血しぶきが座敷に乱れ飛んだ。
翌朝、娘はいつものように早く目覚めた。手も、足もあるのを見て、昨日のことは、夢であったのかと思った。夢にしては、昨夜のことは、あまりにも生々しすぎる。座敷に、たしかめに出かけてみた。血の海になっている。昨夜は、本当に切られたのだ。しかし、自分は、こうして生きている。どうしたことだろうと、お地蔵さまに出かけた。お地蔵さまは、首が切断され、胴体も二つに切断されていた。「私のかわりに、お地蔵さまが身代わりになってくださったのだ」娘は、ありがたさに、手をあわせて、その場に立ちつくしていた。

文政年間(一八一八~一八三〇)のことである。

首切地蔵にまつわる由来を思い浮かべて、お地蔵さまを見つめていた。夕陽をうけて、お地蔵さまの顔が赤く染まっている。老婦人がお地蔵さまの前に花を供えにいらっしゃった。このようにして、この地蔵さまは、文政年間から地域の人たちの手によって大切に守られてきたのだ。

「何軒の方たちによって、祀られていますか」と聞いてみた。「地元では十五軒です。他の地域の方が十軒ありますから二十五軒で、このお地蔵さまを守っています。旧の七月二十四日にはお祭りをします。この道の前に提灯をつるして、それは賑やかですよ」とおっしゃる。

提灯がつるされて、祭が行われるのは稲置街道だ。現代でこそ、通る人もまれな細い道だが、かつては、この道を多くの人が往来した。 稲置街道を通る旅人は、このお地蔵さまに手をあわせて、旅の無事を祈ったのであろう。地域の人は、どんな苦労も、このお地蔵さまに祈れば、助けて頂けると思い、江戸の昔から今に至るまで連綿と大切に祀られてきたのだ。花を供え終わると老婦人は、お地蔵さまに手をあわせて去ってゆかれた。去りゆく老婦人の背中を夕陽が赤く染めていた。

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