沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第2講 前津七不思議めぐり 第4回「飛薬師─清水寺」

飛薬師─清水寺

林通勝は、織田家譜代の家臣だ。信長の父信秀が亡くなった後、その居城の末盛城は信長の弟の信行が守っていた。柴田勝家と林通勝が信行の補佐役であった。

信長は粗暴で奇異な行動が多く、勝家や通勝等の重臣は、信長を廃嫡して弟の信行を織田家の跡取りにしようと計画していた。信長は、その計画を察知し、当時那古野城を守っていた通勝を清洲から訪ねてきた。通勝の気勢をそぎ、計画を頓挫させようとしたのだろう。通勝の弟、通具は「絶好の機会である。信長を殺してしまいましょう」と兄に言った。通勝は弟の勧めを断り、信長を帰してしまった。通勝は、信長を帰した後、なぜ殺さなかったかと後悔した。

荒子・大脇の二つの城主と謀り、即座に信長の領地、篠木の地を奪おうとした。信長は、これを知り、小田井川の左岸、名塚に砦を築き、佐久間大学に守らせて、那古野城に対抗させた。名塚の砦を柴田勝家と通勝は攻めたてたが信長も援軍の兵をくり出した。

両軍が川をはさんで様子をうかがっている時、激しく雨が降り始めた。みるみるうちに河水は氾濫し、信長の軍は小田井川を渡ることができなかった。しかし、信長は軍を叱咤し、自ら濁流の中に馬を入れたてた。 勢いづいた信長軍は一方的に那古野城を攻めたてる。 末盛城に信行と共に暮らしていた信長の母が間に入り、勝家と通勝は信長の軍に下ることになった。この弘治元年(一五五五)の稲生合戦の勝利により、信長は織田家の統領となることができた。

中警察署の北側にひっそりとたたずむ清水寺

中警察署の北側にひっそりとたたずむ清水寺

入り口に立てかけられていた飛薬師 清水寺の看板

入り口に立てかけられていた飛薬師 清水寺の看板

信長に仕えるようになった通勝は、いっこうに手柄らしい手柄をたてることができなかった。秀吉や利家の後塵を拝する始末であった。しかし、譜代の重臣らしい待遇はうけていた。信長が天下統一をなしとげた後、通勝に禁裏を造営する大役が与えられた。

通勝は京で名高い、霊験あらたかな清水寺に参篭し、なんとか無事に禁裏造営工事をなしとげることができるようにと観音様に日夜祈った。通勝の祈りは通じ、工事は無事に完了した。 通勝は、清水寺の観音に対する報恩のために、清洲に寺を建立した。京都清水寺の観音の前立であった千手観音をもらい受けて本尊とした。寺の名前は京都と同じく清水寺と名づけた。

寺は清洲越しの時、桜町と伏見町の北側の地に移された。文政二年(一八一九)熱田誓願寺の鉄仙という尼が、清水寺に移ってから尼僧寺となった。

現在、清水寺は桜町の地から移り、前津の地にある。清水寺の本堂に安置してあった薬師仏は、飛薬師と呼ばれていた。『尾張志』は、そのいきさつを次のように記している。

此寺清須に在しとき西隣の薬師堂火炎にかかりけるか。その火急にして此薬師の像を出し得ざりしにあやしくも其像、この清水寺に飛移りて火を免れし故に、此寺の千手観音を別壇へ移し、その薬師を本尊とせしよしいひ伝へ今に飛薬師といへり。

「あやしくも」とあるが、文字通りこんな不思議な話はない。清水寺の隣の薬師堂が火事になった。あわてた薬師仏が、宙を飛んで逃げ、何くわぬ顔をして清水寺の本堂に鎮座している。 衆生を救うためではなく、自らの身を守るために、空飛ぶ薬師となる所が、なんともいえずほほえましい。悟りすました仏像ではなく、親しみのもてる仏像であるゆえに、このような伝説が生まれたのであろう。

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