沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第14講 大我麻・喜惣治 第2回「水との凄絶な闘い──大蒲池と新田開拓」

水との凄絶な闘い──大蒲池と新田開拓

名古屋市北区楠町大字喜惣治新田中島の田畑。写真中央奥に見えるのは比良新橋

名古屋市北区楠町大字喜惣治新田中島の田畑。写真中央奥に見えるのは比良新橋

大蒲池

今から六百年ほど前までは、大蒲、喜惣治一帯は、葦や蒲の茂る湿地帯であった。 いったん豪雨があると、大山川、合瀬川、境川が増水し、庄内川が氾濫した。水は、師勝、比良、大野木以西へ流れ込みしばしば大きな被害をもたらしたのである。

尾張一円を支配していた清洲の斯波義重は、清洲城下を守るために、堤防を築くことを決意した。一説には、当時、農民の信仰の厚かった高田寺をまもるためであったとも言われている。こうして、比良村から高田寺村にかけて、堅固で、しかも高い堤防が築かれた。その結果、比良村以西は、水害の難を受けることが少なくなったが、大蒲、喜惣治地区を中心とした味鋺村、如意村の西一部は、時を経ずして湿地帯となり、ついで大きな池と化してしまった。この池を大蒲池といい、周囲四キロにもおよぶ広大な池であった。

喜惣治新田の開拓

喜惣治新田の開拓は一六九三年に着手され、たび重なる天災、人災にもめげず、ぎりぎりの最低生活のなか精神力によって、開拓はおし進められ、新田となった。それまで、このあたりは大山川をはじめ東北部春日井原段丘の水がこの低地に集まり、沼と湿地を形成していた。新川排水工事で水害が少なくなり、そのため新田の開発が可能になった。

東から南に大山川が流れこみ、新川へは大蒲新田・如意村・味鋺村の悪水が流れこむ、沼を二分するように大山川の堤防をつくり二つの新田が開発された。しかしながら、新田とは名ばかりの開拓されていない大蒲池の湿地帯である。しかも、開拓に着手しても水害によってたちまち振り出しに戻るありさまで、ついにあきらめざるを得なかった。

それから幾年月、一七一七年に再び開拓が始められた。開拓者は、中萱津村の林平八であった。やがて、愛知郡戸部新田の国枝喜惣治が来往、開拓した土地を買い占め、資金を提供して開拓を押し進めた。喜惣治は本格的に強固な堤防を築いて開墾事業を押し進めたが、じつに十年の歳月を要したという。地元の人々はその功績を記念して残すために、新田の名を喜惣治新田と名付けた。国枝喜惣治が林平八らと協力して築いた堤防は、喜惣治堤防と呼ばれることになる。

昭和三〇年楠村の名古屋市編入を記念して桜が植えられ、楠西桜保存会の努力が実って、毎年四月に行われる桜まつりは近郷の見ものとなっている。

大蒲新田の開拓

大蒲新田の開拓が始まったのは、新川、洗い堰の開削の大工事が完成し、大蒲池の水が、新川に流れ込みはじめてからである。大蒲新田は外浦と呼ばれ、喜惣治新田と一つの沼地であったのを大山川の堤防を固めて中央部を南北に流し、沼地を二分した。東部を生棚囲堤で築留め、新川の完成で水害が少なくなり、開発をはじめたが何度も水害にあい新田開発は難航した。この新田は大蒲池全体を開発したのではなく池の中心、大山川にそった地域で、新田と池の堤防との間を開発し、南を如意村、北を豊場村とした。

豊場村の佐々木磯吉は大蒲に移住し、独力で未開の地、大蒲にはじめて開拓の鍬を入れた。そのころ、大蒲一帯は、すこし高いところが洲山で、その他は蒲の生い茂る池であった。磯吉はまず北西の洲山を開拓して宅地とした。そこを寄り場として、付近の泥をかきあげ、新田を造っていった。苦心の末、三反あまりの田畑を開拓した。磯吉のその努力にいたく感動した大野久兵衛、林平右衛門、林吉蔵、治兵衛、甚蔵ら五人の人々は、順次入植して開発に努めたのである。

開拓はなまやさしいものではなかった。自然の災害にもみまわれ大洪水や泥海となることもあった。三年に一度は、不作の憂目にもあわなくてはならなかった。すこしでも水害の難から逃れようと、堤防を築き、水屋を造った。排水工事と異常なまでの努力が続けられた。

そんなところへ、名古屋城下の杉山屋三輪惣右衛門が、開拓資金を提供し、また、一族のものも入植して、開拓が推し進められた。そして、開拓した田畑は、資金提供者の三輪惣右衛門のものとなっていった。 せっかく、苦労して開拓しても、金力の前にはまったく無力で、小作にあまんずるよりほかになかったのである。三土神として新明社(後の大我麻神社)が建てられた。

地図


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