沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第3講 七墓巡礼歌のみち 第8回「損はたたねと本重町―鶴重町と本重町」

損はたたねと本重町―鶴重町と本重町

奥に向かって伸びるのが現在の本重町通、左右に伸びる道路が伊勢町通り

奥に向かって伸びるのが現在の本重町通、左右に伸びる道路が伊勢町通り

『那古野府城志』は、本重町の町名の由来を、次のように記している。

此町清須に於て新町と号、治工三左衛門といへる者爰に住、斯人伊勢大神宮へ謁する事凡廿三度に及ぶ、一夜夢想に仍て、銘を鶴重と改む、故に鶴重町と云。慶長年中此に移、旧に仍て鶴重町と云。元禄元年戊辰三月、鶴姫君の名を避て元重町と改。治工も亦本重と銘を改、子孫今爰を去る。

治工三左衛門というのは、清須の新町に住んでいた打物鍛冶の丹羽三左衛門。この人は名品の刀を作りたいと二十三度も伊勢神宮に参拝した。伊勢神宮の祭神も感応されて、ある夜三左衛門の夢枕に立って仰った。「今後、お前の打つ刀には鶴重と銘をつけよ。さすれば、お前は名工として厚く遇せられるであろう」 お告げに歓喜した三左衛門は、精魂をこめて鍛えた刀に鶴重と銘を入れるようになった。三左衛門のうつ刀は、名刀としての評価が日に日に高まっていった。

清須越の時、三左衛門も名古屋に移ってきた。三左衛門の刀は、尾州藩の名産に数えられるようになった。 一代の名刀鍛冶、三左衛門にちなんで、町名は旧称の新町を改めて鶴重町と呼ばれることになった。

元禄元年(一六八八)三月、五代将軍綱吉の娘は、鶴姫と名づけられた。将軍の娘と同じ鶴の字を町名に使うのは恐れ多いというので、鶴重町の名前を変更することになった。三左衛門の先祖の法名が「道本」であることから、その本の字を鶴に変えて本重町と呼ばれるようになった。

天保五年(一八三四)、鶴姫も亡くなり、憚りはなくなったので、本重町は旧の鶴重町にと変更された。 本重町は伊勢町筋、練屋町の南にある。町名と同じ東西道路の本重町筋が、堀川東岸の木挽町筋から碁盤割の町中を通り、久屋町まで通じていた。

本重町筋は、鶴重町筋とも呼ばれる。 鶴重町から本重町、さらに鶴重町へとの町名変更。町名とは別の筋の名前も、本重町筋とも鶴重町筋とも呼ばれ、両者の関係はややこしい。明治四年(一八七一)には、本町筋、御園町筋間の五丁に本重町が設けられ、鶴重町とは位置、名称とも区別されるようになった。