沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第3講 七墓巡礼歌のみち 第3回「どなまぐさいが魚の棚―河文」

どなまぐさいが魚の棚―河文

四月十六日夜魚の棚賑合 -尾張名所図会(イメージ着色)

四月十六日夜魚の棚賑合 -尾張名所図会(イメージ着色)

魚の棚と呼ぶのは、町の名前ではなく、筋(道)の名前である。江戸時代、魚の棚筋には、三つの町があった。西端の車ノ町は、桑名町筋と木挽町筋との間の四丁、まん中に位置する、小田原町は桑名町筋と本町筋に挟まれた三丁、東端の永安寺町は本町筋と久屋町筋との間の六丁をさして呼んだ。 車ノ町の歴史は古く『金鱗九十九之塵(こんりんつくものちり)』によれば、

往古名古屋の府いまだ開けざる時、今市場天王前の地に有しが、慶長年中御遷城に付、此所へ引移りて、其後正保慶安の頃(一六四四~一六五一)迄、丁名を壱丁目と唱しよし。然るに承応年間(一六五二~一六五四)、天王祭団じり車を支配する町なればとて、車の町と改号せり。

とある。名古屋遷府以前は、名古屋村の今市場、郭内天王社前にあったのを、慶長年間(一五九六~一六一四)に移転した町である。承応年間(一六五二~一六五四)に天王祭の山車を支配するようになり、車ノ町と改称した。享保年間(一七一六~一七三五)の家数は三五軒。町役銀は一貫六六匁であった。

真宗高田派 至誠院(名古屋市中区丸の内1丁目8-19)

真宗高田派 至誠院(名古屋市中区丸の内1丁目8-19)

車ノ町には真宗高田派の至誠院がある。慶安元年(一六四八)に建立された古い寺である。 戦争で灰塵になるのをまぬがれた公孫樹の樹が空高く境内にそびえている。樹皮が黒く焦げているのが戦火にみまわれ、焼けただれた跡で何とも痛ましい。 戦争の惨禍を、半世紀経過した今となっても、公孫樹の樹の下にたたずむ時、感ぜずにはいられない。

小田原町の町名由来は『金鱗九十九之塵』には、

当町名の儀、清須越初発壱丁目と云、寛永十七庚辰(一六四〇)以後の内に、小田原町と改り申候と相見申候、但清須にて此町名勿論なく候よし。江戸肴屋町を小田原町と申候由。此由緒を以名付候様に旧記に相見申候。

とある。小田原町の町名は清須時代からのものではない。魚の棚筋と呼ばれるごとく魚屋が軒を並べていたので、江戸の魚町、小田原河岸にちなんで、その町名がつけられたものである。享保年間の家数は四十軒、町役銀一貫三八六匁であった。

元禄年間(一六八八~一七〇三)に小田原町に始めて料亭を開いたのは、河文の河内屋文左衛門。以後、尾州藩から屋号をもらったといわれる御納屋(御納屋仁右衛門)、それに近直(近江屋直吉)、大又(大野又右衛門)の料理屋が魚の棚四軒と呼ばれていた。 料理屋には、芸者はつきもの、小田原町は三味線の音色が流れる粋な町筋にと変わっていった。 昭和二十九年(一九五四)に戦火の跡に再建された河文が、魚の棚通りに昔ながらの面影を今もとどめている。

魚の棚通りに昔ながらの面影を今もとどめている 料亭 河文

魚の棚通りに昔ながらの面影を今もとどめている 料亭 河文

永安寺町の町名由来は、『尾張名陽図会』によると、

むかし清須五条橋辺に永安寺と云寺有、其門前に有し故の名也、彼寺もここに移る、今禅寺町永安寺これなり、この町に永安寺ありし跡といふと心得たるは間違ひなり

とある。清須の永安寺の門前にあった町で、清須越にあたっても旧名をそのまま用いた。しかし、清須越の時、永安寺は禅寺町に移された。享保年間の家数八十一軒、町役銀二貫八七一匁である。 明治四年(一八七一)、永安寺町は東魚ノ棚町、西魚ノ棚町に分離、さらに明治九年(一八七六)に東魚ノ棚町は東魚町、西魚ノ棚町は西魚町に改称された。