沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第20講 杉村界隈 第6回「祖父薬師 円満寺」

祖父薬師 円満寺

国道19号に面した円満寺参道

国道19号に面した円満寺参道

この記事で170回にわたって連載してきました沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」を終了いたします。ご愛読ありがとうございました。

※以下の記事は2004年3月に執筆されたものです。

円満寺は国道一九号を春日井の方にむかい長い坂をくだり、瀬戸電を通り越した左側にある。

車で走ってゆくと、 寺は中京銀行の陰に隠れ、屋根がかすかに見えるにすぎない。この寺の近くで育った幼なじみの二人が心中をするという『たったひとつの夢』(水野禄次郎著)という私家本の小説がある。

小説の中に、遠き、よき日の円満寺が次のように書かれている。

四ツ家の町並で、オギャア、オギャアと、うぷ声をあげた人々の中には、子どものとき遊び場として、今なお 忘れることができないのは円満寺の庭である。 本堂向って左裏には、弁財天をまつった小さな詞があり、廻りは池、はすの花開くころともなれば、花開く音 に、池の亀も目を覚し、鯉も驚いてか水面に飛び、小さな波紋をつくり、だんだん波紋の円く大きく広がって、 いつしか姿も消え、またもとの静けさ、遠くから聞えてくるのは、隣りの米屋で米つく音、松のテッベンで鳴く油蝉の声、ときたま流れては、また止む。

寺の境内が子どもたちの遊び場であったころの話である。

円満寺の名は慶長検地帳に見えているので、創建は桃山時代、さらには室町時代にまでさかのぼるかもしれない。 『金鱗九十九之塵』には、円満寺は明暦三年(一六五七)六月、光誉存西(こうよそんざい)の開基で、鍋屋町裏遍照院の末寺であり、 天明年間(一七八一~八九)に志道和尚が寺格を法地(寺院の等級)にしていただきたいと京都鹿ケ谷の法然院へ願い出て、この時満徳山阿弥陀院と改号したと記している。

そのころ、寺の中には大きな松がそびえていた。名古屋城ができたころに植えられた松であったという。本尊の薬師如来は、大曽根村の東、田の中にあったので田中薬師と呼んでいた。また祖母(ばば)薬師に対して祖父(じじい)薬師ともいった。開基の光誉存西が、薬師堂をここに建てて祖父薬師を遷した。

円満寺境内

円満寺境内

祖母薬師の伝説は『尾張名陽図会』に次のように紹介されている。

元和年間(一六一五~二四)、源左衛門という百姓の後家が、屋敷の畑で石仏を掘り出した。古くなっていて顔つきがはっきりしない。小仏であるので大黒と思って安置していた。ある夜、後家の娘の夢の中に「我は薬師である」というお告げがあった。お堂を建立して本尊とした。開帳して人々に拝ませた。霊験あらたかで参拝する人がひきもきらなかった。寺院の号がなかったので、石仏を掘り出した後家が老齢だったから祖母薬師と呼んだ。

祖母薬師は瑞忍寺にまつられているという。祖母薬師に対し、祖父薬師の伝説は古書中に見つけられなかった。明治五年の学制令発布にともない、明治六年二月に大壮義校(たいそうぎこう:のちの六郷小学校)が円満寺の境内に建てられた。 義校の設立には、旧藩土佐藤友政、森下に住む書家大島可進の努力があった。二人は二十数年にわたり義校の教師をつとめた。

くらひ山のほるゆくゑやてらすらん学ひのまとの夜はともし火     佐藤友政
ものならぬ松の落葉もうれしきは君が千とせの数にこそ入れ     大島可進

二人の信頼関係のよくうかがえる歌だ。義校の主席教師の佐藤と次席の大島とが協カをし、子どもたちの教育にあたっている情景が浮かんでくるようだ。 円満寺の境内に入ってゆく。熱心に祈っている女性がいた。三十歳ぐらいであろうか。美しいひとだ。

「檀家の方ですか」と声をかけた。『いや、ちがいます。私の気持ちのよりどころとして、お参りにきています」といわれた。女性は、にこやかな笑顔を残し、自転車に乗って、町の中に消えていった。

地図


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