沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第19講 御用水跡街園 第7回「『ざーざー橋』の位置が変わった──昭和の改修」

猿投橋のちょうど下に段差があり、滝のように水が流れ落ちている

猿投橋のちょうど下に段差があり、滝のように水が流れ落ちている

※この文章は2004年6月に執筆されたものです。

猿投橋で黒川はザーザーと音をたてて流れ落ちている。川底が三メートルほどの段差になっているからだ。段差の下では、大きな鯉がいつも群れている。 犬山から名古屋へ行き来していた舟は、この落差をどうやって上り下りしていたのだろうかと不思議に思う人がいる。 猿投橋より上流は草生えの土手に囲まれた浅い川で、田舎の川のような、のどかな雰囲気をかもしている。猿投橋の落差工を境に一気に姿を変え、黒川は切り立った護岸の深い川となり、典型的な都市河川の様相を示している。 なぜ、この場所でこのように極端な変身をしているのだろうか。

明治一〇年(一八七七)に黒川が開削された。沿川には一面の田や畑が広がり、その中を黒川・御用水・犬山街道が並んでまっすぐに延びていた。 周辺はかつて矢田川などの土砂が溜まって陸地になった低湿地で、雨が降ると排水されにくい土地である。水は小さな水路をとおり、大幸川、三郷水路などを経て黒川に流れ込み海へと排水されていく。田は一時水を蓄え、畑も地下へと水を浸透させる。自然の貯水池であり浸透施設だ。このため、大量の雨水がすぐに川へと流れ込むことはなく、断面が小さくてもなんとか排水できていたのである。この頃は猿投橋には落差工はなく、舟も自由に行き来でき、黒川は上流と同じようなのどかな姿で朝日橋へと流れていた。

黒川に沿うように御用水跡街園が伸びている

黒川に沿うように御用水跡街園が伸びている

大正十一年に「堀川浚渫期成同盟会」から愛知県知事などに陳情書が出されている。それには「以前、黒川には数か所の堰堤があった。落差を利用した水車が設けられ、堰堤は流砂が堀川に堆積して浅くなるのを防ぐのにも役立っていた。堀川を浚渫するとともに堰堤を復活してほしい」と書かれている。かつての黒川では小さな落差を利用して、所々で水車も回っていたのである。

この地域は名古屋の市街地に近く地価も安かったので、徐々に工場や住宅が建設されるようになった。地域の人たちも将来の発展を期待して、大正になると宅地化を目指した耕地整理事業を開始し、昭和の初め頃には相当事業も進捗してきた。だが、宅地化が進むと雨水は一気に川へ流入するようになる。流域は従来から水が溜まりやすい土地であり、これまでの黒川の姿のままでは排水しきれなくなるのである。

また、名古屋港の整備が進むのにあわせて、港から都心や城北地域へ円滑に舟運できるように水深を確保する必要があった。それとともに、大正末から昭和の始めにかけては大変な不況の嵐が吹き荒れており、街に溢れる失業者に仕事を与え救済する必要もあった。  このような背景のなか、昭和六年(一九三一)四月に黒川の改修事業が始まった。大幸川が合流する地点から朝日橋までの約二、九キロメートルの区間で、浚渫して川底を下げ、矢板を打って護岸を造る工事である。川底が深くなり護岸が垂直になることによって、川の断面は広くなり排水能力が強化される。

また、川底が下がったことで潮の干満が猿投橋まで影響するようになり、満潮時には水深が深くなって舟の通航が便利になるのである。工事は八年十二月に完了し、今の黒川の姿になったのである。 工事により川底を下げたので、終了地点である猿投橋には大きな段差が生まれた。一方、黒川と堀川の接続点である朝日橋に従来からあった落差は取り払われた。それまで「ざーざー橋」と呼ばれていたのは下流の朝日橋であったが、今では猿投橋がそう呼ばれるようになってきている。

耕地整理により急速に市街化が進み、北区は製糸・紡績・染色・陶磁器などの工業地帯として発展していった。流域の姿が変わることで川の姿も変わってゆくのである。

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