沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第15講 福徳・中切・成願寺 第2回「花の白雪ふり残る──聖徳寺」

花の白雪ふり残る──聖徳寺

聖徳寺

聖徳寺

『尾張名所図会』は、聖徳寺を次のように紹介している。

福徳村にあり。天台宗、野田密蔵院の末寺。隣村成願寺は安食重頼、法名常観の菩提寺であるので、安食庄内の本寺で、この寺および中切村乗円寺等、みな常観寺の支院であったが、今は本末退転(本寺と末寺との地位が逆転すること)し、かえって成願寺が当寺の末寺になったことが『塩尻』に書いてある。  当寺はもともとは円光寺吉祥院と呼んでいたのを、聖徳太子の自作の像を本尊としたので、つい最近、今の寺号に改めた。
当寺に葦敷(安食)二郎重頼の木像がある。夫人の像は、昔、この地方が大洪水にみまわれた時に流失してしまった。  今、甚目寺に安置してある「おそそさま」と称する像が、葦敷二郎重頼の夫人の像である。
聖徳寺の重頼の像、また成願寺にある山田二郎重忠の像、ともに古像で風雅なおもむきがただよっている。剃髪し、法衣を着ているので全く武将の姿とは見えない。羅漢の像を間違えて、葦敷二郎の像であると伝えたものではないだろうかと、先輩も書き残している。また寺宝として葦敷家の系図がある。

『尾張名所図会』は、安食二郎重頼の像は、厳しい修行を積み、最高の悟りを開いた羅漢の像ではないかという説をあげている。聖徳寺に安置されている安食二郎の像は、静かに目を閉じ、合掌している高僧の姿だ。仏に帰依し、俗世に微塵の迷いももたない強い意志を持つ人の像だ。この像を見ていると『尾張名所図会』の唱える羅漢像という説には首肯できない。

福徳・中切・成願寺の三村は、かつては安食庄(あじきのしょう)であった。安食重頼を始めとする安食一族が支配していた荘園であったからだ。聖徳寺の開祖、安食重頼は福徳の広瀬島に居を構え、多くの部下をかかえる武将であった。朝廷を厚く崇拝し、多くの合戦では朝廷方について手柄をあげた。

墨俣川の合戦(一一三二)では、源行家、義円の軍に付き、平重衝の軍と戦った。美濃・尾張の国境で、大軍を迎え「味方の少ない軍勢で、大軍と戦っては勝ち目はない。この上は、仏の力に頼って精いっぱい戦おう」と日頃、崇拝する聖徳太子の御名を書いた札をかぶとの中に入れて、敵陣にまっしぐらにかけて攻め入った。部下たちも重頼に続けとばかりに、敵軍をけちらした。この戦いで、源義円をはじめ三十九の人が討ち死をした。重頼も三男の重義等肉親に多くの戦死者を出した。重頼は、亡くなった重義や部下の面影を片時も忘れることができない。戦いで、死はつきものというものの、戦死をさせた悔いが残った。戦死した一族の供養と聖徳太子のために生きながらえることのできたことを感謝して聖徳寺を建立した。

多くの戦場を駆けぬけ、多くの部下を亡くした重頼が、現世の無常を悟り、仏に帰依し、部下の霊をひたすら弔う。その孤高の凛とした揺るぎない姿が聖徳寺の重頼像だ。この像と対峙していると、身のひきしまるような思いにかられてくる。しかし、江戸時代は重頼像の信憑性をめぐり、さまざまな説が飛び交ったようだ。

博覧強記の天野信景も『塩尻』の中で、次のように述べている。

葦敷二郎というものが四人いる。浦野四郎重遠の次男重頼。その子重高、その子重行、および山田筑後前司重定の弟八島左衛門尉時成三男重茂(しげもち)等、ともに葦敷二郎と呼んでいた。この古像は、いったい誰のものであろうか。重頼は尾張源氏の祖、浦野重遠の子で、葦敷家の歴代の祖先である。出家したことは古記にも記されているので重頼入道の像であることは疑いのないものであろうか。
ああ、死後の記念として残る彫像でさえも幾時代も過ぎると、いったい誰の像であるかわからなくなっていくのは、なんとも哀れなことである。

             あだにのみ花の白雪ふり残る  あとだにつらき里のはる風

江戸時代、どのような説があろうと聖徳寺に安置されている像は、見ぬ世の安食重頼の像にまがうことなく見えてくる。一方、大洪水によって安食の里から流失した夫人像は、今は甚目寺観音釈迦堂に祀られている。

昭和五十三年四月九日号の「中部読売新聞日曜版」は、この夫人像のルポ記を掲載している。

荘園時代の末期、現在の愛知県海部郡甚目寺町から名古屋市北区福徳、成願寺町付近を結ぶ矢田川で洪水に流された女人像の、はかない行く末が、今なお住民の間で語り伝えられている。女人像は甚目寺観音の釈迦堂に静かに安置されており「すっごいべっぴんの仏さん。一目見りゃ、しみ、そばかすも落ち、たちまち顔がきれいになる」という。そこで、慕われているお尊像様、美女は、もとは荘司(荘園を管理する地方官)の人妻だったという説が有力だが、その荘司がだれなのかは定かではない。ただひたすら美しいお姿で、お参りに来る人々に美をほどこしておられる。
お経のリズムと線香の白い煙。その中に、ふっと浮かび上がる女人の像には、普通の仏像とは全く違った美しさがあった。
白いほお、朱いくちびる、くっきりしたまなこ。悲しい流転の運命を少しも感じさせない端正な表情であった。厨子から、かい間見える姿には、仏像の持つあの荘厳な気高さとは別の、再現された人間のしたたかな美しさが、ひしひしと迫ってくる。
庵主さまに、お尊像さまの伝説をうかがってみたが「私は何も存じません。五十年間、この美しい仏と一緒におりますが、この方の生いたちは関係ありますまい」。
後はにこやかにほほ笑まれるだけだった。

左側が太子堂

左側が太子堂

『尾張名所図会』は、大洪水で流失した聖徳寺の安食重頼の夫人像が甚目寺に漂着したと記している。しかし、読売新聞のルポ記では、この像がだれなのか、はっきりしないと記している。安食重頼の夫人像のほかに、成願寺の山田重忠の夫人像だという説があるからだ。

甚目寺の尊像は生々しい女人像だ。目はくっきりと開き、豊頰だ。重頼の瞑想した沈静な表情とは対照的だ。甚目寺の生々しい女人像と聖徳寺の重頼像とを伝説によって、むりに結びつけることはないかも知れない。重頼像と対面すべく、住職に太子堂に案内して頂いた。

「寺の名前の由来となった聖徳太子を祀ってある、この客殿は、昭和八年に野嵜宅右ヱ門が棟梁となって建てたものです」

立派な普請だ。聖徳太子像が鎮座するにふさわしい贅をこらした造りである。

「太子像は、秘仏となっていて三十三年に一度しか開帳しません。平成五年に開帳していますから、次は平成三十八年です。厨子の左側にある太子像の画と全く同じ像が厨子の中に入っています」

江戸時代の古書の中に、聖徳寺の開帳の記述が散見している。どの時代の開帳でも多くの参拝客で大変な賑わいであったことが書かれている。

「これが因果経です。昭和三十六年に名古屋市の指定文化財、昭和五十五年には国の重要文化財の指定をうけています。現物は名古屋市の博物館にあります。これは原寸大の複製です」

因果経は釈迦の本生譚を叙したものだ。下部に因果経が書かれ、上部には経文の意味を記した画が描かれている。上段の画は、彩色がほどこされていない白描である。因果経で国宝になっているのが東京芸術大学所蔵のもので、奈良時代の作であるといわれている。根津美術館所蔵のものは鎌倉中期の建長六年(一二五四)の作とされている。

現在判明している因果経は、東京芸術大学所蔵のように奈良朝期のものか、あるいは根津美術館所蔵のものと全く同じ建長六年に製作されたもののいずれかに属する。ところが、聖徳寺の因果経の製作時期は、平安朝の中期と推定されている。重要文化財指定にふさわしい流麗な筆づかいの見事な作品だ。

秘伝の太子像をはさみ右側には重頼の像、左側には不動明王の像が祀られている。

「この不動明王は、名古屋城の鬼門にあたる北東の地にあった鬼門除けの尊寿院に祀ってあったものです。明治三年の廃仏毀釈の騒動の時に、この寺に移ってきました」

眼を怒らし、牙を咬み、右手に降魔の剱を持った荒々しい形相の像だ。悪魔を降伏させるための忿怒(ふんぬ)の相で、いかにも名古屋城の鬼門除けにふさわしい像だ。住職と話していて、外に出ると満月が冬空に浮かんでいた。寺の境内を月明かりがくまなく照らしている。

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