沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第15講 福徳・中切・成願寺 第6回「あわれむべし断髪禅衣の像──成願寺」

あわれむべし断髪禅衣の像──成願寺

現代的な建築様式をみせる成願寺

現代的な建築様式をみせる成願寺

成願寺は、矢田川の堤防の真下にある。堤防の上を何台もの自動車が走り過ぎてゆく。澄みきった大空に、飛行機が一本の白い線を残して消えてゆく。墓石の林立している中を歩いてゆく。静寂そのものだ。こののどかな成願寺の里も、かつては矢田川の水害に幾度も悩まされた。多くのものが、水害の時、この里に漂流してきた。そして、多くのものが、この里から下流の村に流れていった。

そのうちの一つに甚目寺観音に伝わる婦人像がある。『尾張名所図会』は、三郷の里から流失した婦人像を、聖徳寺の安食重頼の夫人像であるとしている。しかし、朝岡宇朝は『袂草』の中で、この像は成願寺の山田重忠の夫人像であるとしている。『袂草』は、次のように記している。

尾州の城北、安井川、味鋺川の間に成願寺村がある。この村の成願寺に、山田次郎の木像がある。僧形である。妻の像もあったが、昔、大水の時に流されてしまった。像は、甚目寺に流れ着いた。土地の人が、これを拾いあげて甚目寺の本堂に安置した。今に至るまで甚目寺で祀られ、土地の人々からは「おそそさま」と呼ばれている。

山田次郎は六月十五日に討ち死にしているので、六月十五日と正月十五日と年に二回、荒川家では布施を持参して、参詣するということである。

考えてみると昔は、川々の堤は現在あるものとは異なっているので、水はただ地の低い方に流れてゆき、それが自然と川になったのだろう。だから成願寺の木像が甚目寺辺りまで流れて行ったのも自然の水勢であるだろう。

文中に出てくる荒川家とは、著者の朝岡宇朝の友人、荒川宗兵衛家のこと。山田重忠と荒川家との関係を『袂草』は、次のように記している。

山田次郎は、尾州山田の庄の者である。承久の乱で京都方に属し、瀬田に陣を引いて宇治の戦いで敗れ、嵯峨の方へ落ちのびて行き、とうとうそこで討ち死にをした。
山田の聟、荒川某、名前はわからない。今の荒川宗兵衛の先祖である。その者が、山田の菩提のために、尾州山田の庄木ケ崎に長母寺を建立し、岩作村に長兄寺を建て、その外長父寺、長弟寺という寺も建てた。
長父寺は、山田次郎重忠の菩提を弔うための寺、長母寺は、その夫人の菩提を弔うための寺である。二人の子供の菩提所が長兄寺、長弟寺である。
その後、長父寺、長弟寺は廃絶したが、長母寺、長兄寺は今も残っている。聟の荒川も山田と姓を改めたが、また荒川にもどした。この荒川は、我が先祖であると宗兵衛が語った。荒川の紋は割鷹羽である。これが山田の紋である

成願寺は山門もガラス張り

成願寺は山門もガラス張り

聖徳寺の安食重頼像は、羅漢像でないかという説が江戸時代に起こったが、成願寺の山田重忠像も、開山和尚の像ではないかと取りざたされた。安政二年(一八五五)三月二十四日、儒学者の細野要斎は、山田重忠の像を見に成願寺を訪れている。『感興漫筆』の中に、その日のことを次のように記している。

午後、富永莘陽とともに成願寺村の成願寺に遊びに行く。この寺に山田次郎の肖像が、仏殿の西に安置してある。いつもは扉が閉めてある。今日は住職は外出していて留守だ。村人が集まっている。村人に告げて、私自ら扉を開いて見てみると、この像は僧形である。高さは二尺余りある。壁に、半紙に書いた説明文が掛けてある。

山田次郎重忠像 承久三年六月十二日  嵯峨野で亡くなった。法名建正
この像は重忠の像ではなくて、開山和尚の像であるという説がある。本当であるか、どうかはっきりしたことはわからない。

成願寺山田次郎祀前賦  忠陳
承久勤王不奏功  損軀夏日落西風
可憐断髪禅衣像  香火汚顔野寺中

勤王の志もむなしく、洛西の地で戦死した山田重忠が、今日断髪禅衣の僧として、目の前にたたずんでいる。香がたちこめる中、その尊顔を見ているとなんともあわれな気持ちになってくるという意の詩であろう。

成願寺は、天台宗で、開基は行基である。もと常観寺といった。安食庄の荘司、安食重頼は出家をして常観坊隆憲といったが、その常観をとって、この寺は常観寺と名づけた。山田庄の荘司、山田重忠が再建した時より成願寺と改められた。

成願寺の本尊は、行基の彫った十一面観音である。行基自作と伝えられているが、この像は平安中期に製作されたものである。裳の折り返し部分には二個の渦文がある。天衣や裳には彩色文様の痕がある。飜波式彫法の典型的なものだ。高さは一メートル五九センチで、台座、光背、宝冠は後世に補修したものである。

山田重忠像、十一面観音像の他、名古屋市の文化財に指定されている大黒天木像が寺に所蔵されている。大黒天は全高五五センチの寄木造である。台座の裏に墨書の銘がある。銘文中の製作年代は、はっきり読めないが、元和年間の作と思われる。

成願寺にゆかりの人物は、行基、安食重頼、石黒重忠と錚々たる人物がつづく。『信長記』の著者、太田牛一も、この寺で育った人だ。『尾張名所図会』は、太田牛一について、次のように記している。

太田和泉守牛一は、はじめは又助といった。信長公の近習で書記の役を勤めた。また弓鎗六人衆の武将のひとりで有名な人であった。  幼少の頃、この常観寺で成長し、青年時に還俗して武将となった。軍功も数多くたて、また『天正記』九巻を著述した。『信長記』十五巻も記した。

本堂の階段に座り「あわれむべし断髪禅衣の像」の句を口ずさんでいた。一代の英雄も、はかない死をとげる。人の世は、矢田川の流れのようにはかないものだと思った。

写真右手にある山門の向こうに矢田川の堤防が見える

写真右手にある山門の向こうに矢田川の堤防が見える

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