沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第2講 前津七不思議めぐり 第3回「蜘蛛の糸─福恩寺」

蜘蛛の糸─福恩寺

明治二十一年、大正七年、昭和二十一年、平成十二年と四枚の地図を机の上に置いて、前津一帯の変遷を調べている。 明治二十一年の地図を見てみると、前津台地の東は田畑ばかりの田園地帯が続いている。大正七年になると上前津から鶴舞公園にと岩井町線を挟み、多くの民家が建てられ、田園は町並みへと変貌している。

前津一帯が、大正時代になって一変したのは、明治四十三年に鶴舞公園で開西府県連合の共進会が開催されたからだ。共進会を開く会場を作るために、新堀川を掘削した土で御器所の地の埋め立てを行った。埋めたてた土地は面積二十五万五千平方メートルの鶴舞公園となった。共進会に人々を運ぶために岩井町線が出来た。電車も上前津から鶴舞公園へと敷設される。

大池(年代不明)

大池(年代不明)

岩井町線の拡張の犠牲になったのが、行楽地として人々に親しまれてきた大池だ。大池は掬塵池とも呼ばれた。『金鱗九十九之塵(こんりんつくものちり)』は、大池を次のように紹介している。

是は此地一村の用水にしてほとんど広し。又春の頃の摘菜、凧上に来り、いと賑はへる地也。且正・五・九月二十六夜まちに、名府の人々は此塘に来り、男女群集して是を拝む事年中行事に載たり。且江戸鉄砲か淵にもこの事あり。また京師にもありとなん。
池の面にはりたる網の俤を糸目に見せて上る鳶凧   高香
大池に風荒る日や前津野の麦のほなミも高く打らん  秋親
ころんでも凧ははなさぬ堤かな           曾洛
不二とほく凧のたもとにこゆる哉          羅城

大池に風が吹きすさぶ日には、前津野に実る麦の穂も高く波うつであろうという意の、秋親の句を除いては、凧上げを詠んだ歌や句ばかりだ。台地の下に広がる前津野は、風の通り道で、凧上げに絶好の地であったようだ。

大池の風物は凧上げばかりではない。花屋新三郎の選んだ前津の地の名勝八景には、「麹池夕陽」が入っている。小田切春江、木村金秋の二人が選んだ前津七景には「大池の菜花」が入っている。大池の辺には、菜の花が咲き乱れ、夕陽の眺めのすばらしい地であった。

大池は『金鱗九十九之塵』に書かれているように、元禄時代、前津小林村の百姓が総出で十五町歩の灌漑用水のために掘った面積一町五反五畝二十五歩という大きな池であった。 大きな池には必ず、その池の主が棲息しているという。川島清堂『名古屋雑史其他』によると大池の主は大きな蜘蛛であるという。大池の主の蜘蛛にまつわる伝説は次の通りだ。

元古井の浅野伝七は、今日も朝から大池に釣糸をたらし浮標(うき)を見つめていた。なかなか当りがこない。足の親指が何かおかしい、異様な感じがした。見てみると一匹の大きな蜘蛛が親指に糸をかけている。素知らぬふりをしていると蜘蛛は糸をかけ終わるや池に入り、しばらくするとまた、上がって来て、親指に糸をかける。同じことを何度も繰り返す。

伝七は、大池の主は蜘蛛だという噂を思い出し、糸で池に引っぱりこまれるかも知れないと恐怖感にとらわれ、親指にかかっている糸をほどいて、釣をしている傍らに生えている柳の木の根元に結びつけた。蜘蛛は糸を柳に付け替えられたとも知らず、何度も糸をかけている。糸はしだいに太くなる。 突然、ミリミリと地を響かせて、柳の木が池の中に引き込まれていった。

池にたつ水煙を見て、柳の木が自分の身代りになって助かったと思い、伝七は一目散に家に逃げ帰った。家に帰っても、震えは止まらず、熱を出して寝こんでしまった。一週間ほどして、伝七は亡くなったという。

福恩寺(名古屋市中区千代田2丁目9-33)

福恩寺(名古屋市中区千代田2丁目9-33)

蜘蛛の伝説の地、大池は明治四十四年に埋めたてられた。名前は町名にとどめられて、一丁目から七丁目までの町筋が出来あがった。しかし、その大池町も太平洋戦争により、灰塵に帰してしまった。

昭和二十一年の『名古屋市焼失区域図』を見ると前津の地一帯が全て焼失している。平成十二年の地図には、大池町の町名は見あたらず千代田となっている。わずかに大池の名前は、公園や保育園の名前として残っているだけだ。 大池で水死した人の霊を祀る石碑が福恩寺に建立されている。石碑に書かれている字は摩滅していて、何が書かれているか判然としない。

福恩寺に残る供養碑

福恩寺に残る供養碑

地図


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