沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第10講 下街道大曽根界隈 第4回「片山八幡神社」

片山八幡神社

片山八幡神社

片山八幡神社

東区には、国道十九号を隔てて片山神社が芳野町に、片山八幡神社が東大曽根にある。二つの片山神社は、式内社の地位をめぐり、明治時代まで争いを何百年間もくりかえしていた。

津田正生の『尾張地名考』はそのいきさつを

瀧川氏蔵王の神主が片山の名を奪ひしとのみ心得て常に不快に思はれて強ひて大曽根を片山にせられしなるべし。片山神社は七尾永正寺の天神ならんもしるべからず

と記している。

『尾張地名考』によれば、瀧川弘美が、芳野町の片山神社の神主が片山という名を奪って名付けたのを不快に思って、むりやり大曽根の八幡社を片山神社としたのであろうとしている。

瀧川弘美の考えは、

延喜式の山田郡片山神社は、大曽根八幡之社是也。其後杉村之蔵王社人片山の社号を拾ひて式内の神社とせるものは末世の人情憎むべし

という説である。

式内社(延喜式の神名帳に記載されている神社)は、大曽根の八幡社で、杉村の蔵王社が片山と名付けたのは憎らしいことであるとしている。

『尾張志』は、客観的に

此社を近き年ごろ神名式に見へたる山田郡片山神社なりといふ説あるにつきて此社伝地理などよく聞き見明たるに然いふばかりの故縁なきにしもあらねど的証なければいかかあらんされど地理は片山といふべき形勢ありて古社ともおぼしき

と述べている。

地勢が片山(一方にだけ傾斜のある山)で、片山神社と呼ばれる理由がないわけでもないが、たしかな証拠もないので断定することはできないとしている。

片山八幡神社 境内

片山八幡神社 境内

片山八幡宮は、徳川時代には三千百二十坪を有する広大な神社であったが、大正時代に入り、電車軌道が境内を貫通したため境内地が狭められてしまった。

祭神は品陀別命、天照大神、菊理媛命の三神。創建は、社伝に従えば継体天皇の五年。

尾張二代藩主の徳川光友が、たまたま荒廃していた八幡社を見つけて、東照宮の祠宮吉見民部大輔とその子息、左京大夫に命じて神殿、社頭を再興させた。元禄八年(一六九六)十一月十三日に落成をした。

その時に御神体の御筥(みはこ)を、江戸高田穴八幡の御筥に模して作らせた。また山田即斎を使わして、穴八幡の神楽を習得させ、これを八幡社に代々伝えさせた。

境内には姫子龍神社が合祀されている。もともとは徳川家の別邸の椎の木山に鎮座していた神社であるが、大正十二年(一九二三)に徳川家が、付近一体の地を売却したので八幡社の境内に遷祀された、俗に谷龍神社と呼ばれている。

祭神は闇淤加美神(くらおかみのかみ)。クラは谷の義で、谷に棲む龍神を祭った社である。  椎の木山に住む大蛇を慰めるために祭祀されたものである。その大蛇が昇天した池が、椎の木山の南一丁の地にあった龍神ケ池である。

谷龍神社には、矢田町にある六所社の雲龍神社と同じく、龍にちなみ中日ドラゴンズの優勝祈願の幟がはためいている。

龍にちなみ中日ドラゴンズの優勝祈願の幟がはためいている谷龍神社

龍にちなみ中日ドラゴンズの優勝祈願の幟がはためいている谷龍神社

地図


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