沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第19講 御用水跡街園 第1回「マダム貞奴──川上絹布跡」

マダム貞奴──川上絹布跡

文化のみち二葉館 名古屋市旧川上貞奴邸。 電力王 福沢桃介と日本の女優第1号である川上貞奴が共に暮らした旧邸宅。東二葉町から橦木町へと移築復元され文化施設として活用されている。川上絹布株式会社は東大曽根の六郷村(現在の上飯田)に設立された。

文化のみち二葉館 名古屋市旧川上貞奴邸。 電力王 福沢桃介と日本の女優第1号である川上貞奴が共に暮らした旧邸宅。東二葉町から橦木町へと移築復元され文化施設として活用されている。川上絹布株式会社は東大曽根の六郷村(現在の上飯田)に設立された。

※この文章は2004年6月に執筆されたものです。

過ぎし昔の夢なれや  工女工女と一口に
とかく世間のさげすみを  うけて口惜しき身なりしが
文化進める大御代の  恵みの風に大道を
なみせる古き習しや  思想を漸く吹き払い

この歌は、川上貞(芸名・貞奴)が大正七年(一九一八)に上飯田につくった川上絹布会社の社歌である。川上絹布会社では、十五、六歳から二十歳まで四十~五十人の女工が働いていた。作業は四十五分働き、十五分休む。紺のセーラー服に靴をはき、女学生のような格好をしていた。昼休みの運動にはテニスをする。テニスコートのほかにプールも工場にある。全員が寮で生活をしていた。夜にはお茶、お花、和裁などの習いごとをした。休日には演芸会などのレクリェーションが行われた。

厳しい労働と安い給料で、朝早くから夜遅くまで働く。自分に与えられた仕事の割当てができなければ厳しくしかられる。明治から大正の初めにかけての女工たちの生活は、「世間のさげすみ」をうけるみじめな生活だった。川上絹布会社は、今までの女工の生活とは、まったく違う生活を送ることのできる新しい会社であったのだ。

川上絹布会社を上飯田につくった川上貞は、明治時代に夫の川上音二郎とともに、それまでの歌舞伎とは違った新しい芝居の新派劇をつくった。

明治四十四年(一九一〇)、川上音二郎がなくなった。夫の死後、大正七年から貞奴は名古屋の二葉町で、名古屋電灯会社、愛知電機鉄道会社の社長であった福沢桃介と新しい生活を始めた。桃介はのちに、大井ダムを完成させ木曽川の水力発電に手をつけた実業家である。

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