沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第17講 黒川治愿の足跡をたずねて 第6回「ハニワ道──二子山古墳」

ハニワ道──二子山古墳

二子山公園内の馬形埴輪と二子山古墳

二子山公園内の馬形埴輪と二子山古墳

※この文章は2004年4月に執筆されたものです。

二子山公園には、三つの古墳が点在している。 公園の北側にあり、墳頂に白山神社が鎮座しているのが白山神社古墳。主軸長八四メートル、後円部の高さ約七メートル。周りに濠がめぐらされている。

公園の西側にある古墳が御旅所古墳。古墳墳上には祠がある。白山神社の神が祭礼時に渡御される御旅所である。直径三十メートル余、高さ約三メートルの円墳である。

公園の東側にあり、三つある古墳のうち最も遺存状態もよく、大きい古墳が二子山古墳。墳丘長九四メートルの盾形周濠をともなう前方後円墳である。二子山という地名は、前方後円墳の形状から名づけられたものである。

古墳が築かれたのは、六世紀前葉である。古墳の規模が縮小される、この時代にあって熱田の墳丘長一五一メートルの断天山古墳に次ぐ大きさである。この古墳は継体陵とみなされている高槻市の今城塚古墳と同タイプの古墳である。継体天皇の妃は、尾張連草香の娘である目子媛である。これらの点から断天山古墳と同じく二子山古墳も、継体朝を支持する尾張氏との関連が指摘されている。

二子山古墳には尾張型埴輪が使用されている。尾張型埴輪は硬質の灰色をした埴輪である。この尾張型埴輪は春日井市の下原町で生産された。『日本の古代遺跡 愛知』(保育社)は、下原町の古代遺跡について、次のように記している。

一九六一年(昭和三六)名古屋大学によって二号窯の発掘調査が実施された。その後、一九八九年(平成元)から一九九〇年にかけて、あらためて春日井市教育委員会によって本格的な調査が実施された。その結果一一基の古窯が確認され、とくにそのうちの三号窯は天井の一部を含め、焚口から煙道までほぼ完全なかたちで残存していた。
下原古窯は須恵器と埴輪の兼用窯であり、須恵器はおよそ五世紀末からその生産が開始されたようで、六世紀前半期に盛行した。同様に埴輪も六世紀前半期のものが多く、すべて尾張型埴輪である。下原古墳が味美古墳群の北群ときわめて関係の深い生産地であることは明らかで、味美古墳の南群造営に合わせたかのように下原古墳がその生産を開始している。
古墳群と古窯の関係が具体的に判明した事例として、全国的にも貴重な資料を提供している。
なお現在、市教育委員会によって八田川沿いに「はにわ道」が整備され、下原古窯は公園として保存・整備されている。

下原で焼かれた埴輪が二子山に運ばれ、古墳の造営に使用される。  むかしの人々が、営々と古墳を背負い、現在の八田川沿いのハニワ道を運んできた。

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