沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第8講 志賀の里 第4回「四十八祖社」

四十八祖社

綿神社境内.綿神社拝殿(左)と四十八祖社(右端の肌色の鳥居)

綿神社境内. 綿神社拝殿(左)と四十八祖社(右端の肌色の鳥居)

北区郷土史研究会の刊行した『田幡志』に、次のような記述がある。

昔志賀村の城主平手中務太輔政秀諌死の後、其息某勘気をこうむれることありて、久しく赦免なかりしが、其臣某等度度赦免を請へども不赦ければ今は力尽き、四十八人自殺して、其趣を清須へ達せんとて、使者某此所迄出立けるに、清須よりの使者、赦免状を持来るに此処にて行逢へり、今しばらく使者の速きか、自殺する事の遅きかならましかばと、平手の家臣歯を噛み涙を流し大に歎き、此所にてまた自殺せしを埋みて一つの塚となす。故になみだ塚と名付と。今猶眼病・虫歯患ふる者祈願すれば験ありとて、立願するものあり。

平手政秀が諌死した後、その息子が信長の勘気をこうむった。家臣は何度も赦免を願ったが信長からの許しはなかった。今はこれまでと四十八人の家臣は腹を切って死んだ。そのことを知らせに、清洲にむけて平手の家臣は馬を走らせた。おりから清洲からも信長の使者が赦免状を持って馬を走らせてきた。

「今すこし四十八人の腹を切るのが遅かったら、今すこし使者が来るのが速かったら、四十八人は死ななくてもよかったのに」と言って平手の家臣は、その場で腹を切って死んだ。

平手の家臣を埋めた塚を「なみだ塚」、清洲からの使者に出会って馬を止めた松を駒止めの松という。駒止町の町名は、清洲からの使者と馬を止めて出会った場所であることに由来する。

四十八人を祀った社が、綿神社内にある四十八祖社である。

四十八人を祀った四十八祖社

四十八人を祀った四十八祖社

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