沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第16講 上飯田界隈 第4回「焦げた灯籠──長全寺」

焦げた灯籠──長全寺

長全寺

長全寺 愛知県名古屋市北区上飯田東町5丁目39 ‎

※この文章は2004年2月に執筆されたものです。

本堂の高い檀の上に釈迦牟尼仏の像が安置してある。目を凝らし見てみる。薄暗くて像がはっきりと見えない。

「私の寺は戦争で焼けてしまいましたが、この本尊だけは一宮の萩原にある成福寺に預けてありましたので助かりました。  成福寺は、先住の兄弟子の寺です。名古屋の空襲が続くので、見舞いにこられた成福寺の住職が、本尊を萩原に疎開させてはどうかと勧められました。住職は、それはだいじに抱えるようにして持っていかれました。おかげで寺は焼けましたが、本尊は今もこうして拝ませて頂けます」

長全寺は、この地に越してくるまでは新栄町にあった。境内は二二〇坪もある大きな寺であった。亀尾山と号す曹洞宗の名刹で、江戸時代には九九〇坪もあり、含笑寺の末寺であった。創建は遠く永禄七年(一五六四)にさかのぼる。開祖は春岩宗沢である。慶長遷府の時に、清洲から名古屋に移ってきた。長く新栄町にあった長全寺も戦火のために、あえなく消失してしまった。

「あの時は逃げるに精一杯で、寺が燃えている記憶は残っていません。蒲団を頭から被って逃げました。小学生の時でした」住職は、戦後すぐに写された航空写真のパネルを指さして、「ここに寺がありました。今は薬局になっています」といわれる。住職が指さされた先は、CBCの東、飯田街道と広小路が交差しているあたりだ。「戦後の復興事業で境内が二分されることになりました。寺をどこかに移転しなければということで、適当な土地を探していました」

昭和三十年に、今の地を購入し、昭和三十三年に本堂が完成した。本堂が完成した直後伊勢湾台風に襲われた。

「板戸が矢田川の堤防近くまで飛んでいって、それを拾ってきました」

当時、このあたりは田んぼの中であったという。台風が過ぎ去った翌日、板戸を探して、農道を走りまわる住職の姿が彷彿と浮かんでくる話だ。

上飯田からは、名古屋駅まで通じる市電が走っていた。市電がのんびりと走る音が聞こえてきたという。

本堂をおりて庭に出る。  庭の片隅に地蔵仏が何基か立っている。元禄二年(一六八九)と銘のある柔和な表情の地蔵仏がある。正徳四年(一七一四)の地蔵仏もある。新栄町から、この地に移ってきたものだ。本堂や庫裏は焼尽してしまったが、地蔵仏六体は、戦火をくぐりぬけて、今もこの地にある。

「そこにある灯籠も新栄町から持ってきたものです」と住職がいわれる。年代を経た地蔵仏や立派な灯籠を見ていると、往時の長全寺のたたずまいが浮かんでくる。戦火をくぐり抜けてきた灯籠もあれば、戦火のため無残にも破壊された灯籠もある。灯籠の立っている南側は庭だ。庭の端には破損した灯籠が置かれている。灯籠は黒く焦げている。戦火で焼けて焦げたものだ。痛々しい姿が、戦争のむごたらしさを表している。

平成十五年には山門、その前年には客殿が建立された。住職から客殿に案内していただいた。客殿は耕心館と名づけられている。達筆で、感謝のこころを持ちなさい等の、人としてのあるべき姿を教えることばがいくつか書かれている。心の豊かな人に、若い人々を育てたいという意図で建てられた客殿だろう。長全寺は静謐に満ちた寺だ。何かゆったりとした気分になって寺を出た。

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