沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第14講 大我麻・喜惣治 第5回「公孫樹ちる──喜惣治神明社」

公孫樹ちる──喜惣治神明社

喜惣治神明社参道前にある二股になっている楠

喜惣治神明社参道前にある二股になっている楠

公孫樹の葉が陽光にきらめきながらゆっくりと落ちてゆく。それは、残されたわずかな時を惜しむかのようにゆっくりとした散りかたであった。一晩木枯らしが吹き荒れたら公孫樹はまちがいなく裸木になってしまうだろう。今日は、裸木になっているか、今日は、まだ散ってないかと思いながら神明社を訪れているが、まだ裸木になっていない。しかし、堤防に散っている公孫樹の葉は、日に日に多くなり、黄色の絨毯(じゅうたん)を敷いたようになっている。

毎年、公孫樹の葉が一晩で散ってしまうのを見ると、今年も年が暮れてゆくのを実感する。公孫樹は人生そのものだ。春の青葉、秋の実り、そして年の暮れにはすっかり葉を落としてしまう。公孫樹の大木のある堤防の下は、細々とした川筋になっている。川面が陽光できらきらと光っている。サギが一羽、川の中で餌をついばんでいる。孤高の姿そのものだ。 サギの傍らでは、カモが群をなして泳いでいる。神明社のカシの大木は鳥の巣になっているのだろうか。かしましいさえずりが聞こえてくる。のどかな眺めだ。しかし、川は、ひとたび荒れだすと手がつけられなくなる。

平成十二年九月十一日、新川大洪水の時には喜惣治、大蒲新田は甚大な被害をうけた。国道四十一号線沿いにある喫茶店ジャポンで、喜惣治町に在住の八十四歳になる林五郎さんとお会いした時のことだ。林さんは、喜惣治の往時の思い出を語られる時には、温厚そのものの表情だ。しかし、新川大洪水に話が及ぶと声は大きくなり、顔は朱をそそいだように赤くなる。

「あの洪水で何人の人が死んだかわからない。」

洪水の時には、庄内川緑地公園で、ひとりの方が亡くなられただけだ。そのことを話すと

「いや、洪水の後、ストレスで喜惣治や大蒲では、何人もの人が亡くなっている。九月十一日の夜、このあたりは床上浸水で、冷蔵庫もテレビも水の上だった。このジャポンも、水に浸ってしまった。  家財はなくなる、家の修理はどうしたらよいか、一週間は眠れない日が続いただろう。心労で何人もの人が亡くなったのだ。」

林さんは、新川洪水は天災ではなく、人災であるとおっしゃる。被害にあったものでなければ、あの悲惨な状況はわからないとくりかえし語られる。林さんの説明は、非常に具体的だ。

「橋は水平であるものだ。立合橋は、坂になっている。比良の方は高く、喜惣治は低くなっている。堤防にあがる階段も喜惣治より比良は十段高くなっている。これでは水は比良に流れず、喜惣治に落ちてくるのは当然だ。」

新川の堤防にある楠と天王社。奥には喜惣治神明社の鳥居が見える

新川の堤防にある楠と天王社。奥には喜惣治神明社の鳥居が見える

今朝の林さんの話を思い浮かべながら公孫樹の樹の下で、大山川を眺めていた。喜惣治橋の上を何台もの車が通り過ぎてゆく。神明社の車止めは、昭和二年に喜惣治橋が架けかえられた時の親柱だ。大きな三つの石柱が車止めとして使われている。

大正十二年、勝川から清洲に通じる県道が如意の池の端まで通じた。さらに三間巾の新道をつくり、比良まで通すことになった。その時、喜惣治橋は、木橋から鉄筋コンクリートの橋に代わった。昭和二年の喜惣治橋の竣工式には、小学生が渡り初めをしたという。屋台なども出て、大変賑やかな渡り初め式であった。

神明社の南側に二股になっている楠の大木がそびえている。木の下に祠が祀られている。天王社だ。津島神社の天王信仰は、尾張地方には根強く残っている。江戸時代、流行病(はやりやまい)にかかれば一家全滅をしてしまう。そして、疫病は町中に蔓延し、多くの人々が亡くなってゆく。医学が発達していない当時としては、病気の快癒は津島天王社に祈るより術がなかったであろう。そのため、おびただしい数の天王社が各地に残っている。

病は口から入るという。水によって疫病がもたらされることを知っている人々は川辺に天王社を建てた。大蒲新田の天王社は上下部落の境の堤防上にあった。喜惣治の天王社は橋のたもとにある。旧の六月七日に行われる天王社の祭は、提灯が飾られてにぎやかであるという。

喜惣治神明社

喜惣治神明社

車止めを通り、境内に入ってゆく。神明社の祭神は天照大神。神社には享保二年(一七一七)の棟札が残っている。水神社と知立神社とが合祀されている。水神社は、県道の南側、堤防の上の林の中にあったものを、大正五年に境内に遷宮したものだ。知立神社は、蝮除けの神であるという。

林さんは「神明社の辺は藪だった。蝮がよく出て、何人もの人が被害にあうので、知立神社に部落から代表をたてて、今でも四月三日にお札を迎えに行っている。」といわれる。如意の中之嶋にも、まむし地蔵という地蔵が建っていた。さらに川を隔てた比良には蛇池がある。この辺は湿地帯であるので、蛇や蝮が多く、その被害を避ける信仰が生れたのであろう。

神明社は立派な石垣でできている。これは昭和十八年の改築の時に、喜惣治出身の林金房が寄進したものである。金房は明治三十四年生まれ。家が貧しく、幼少時には正規に登校できないような状態であった。大工の見習いを経て、安藤組に入社し、各務原の飛行場建設で辣腕をふるった。その後、大阪に出て林組を作り業績をあげた。 大蒲、喜惣治新田の開拓者、林平八の末裔にあたるという。

神社を出て、楠西の堤防を歩いてゆく、昭和三十年、楠村が名古屋市に合併されたのを記念して植えられた桜が大木となり、桜並木を作っている。喜惣治は水害との戦いの歴史であった。喜惣治の堤防のいたる所で行われている補修工事を見ているとそのことを強く感ずる。

新川に架かる喜惣治橋

新川に架かる喜惣治橋

地図


より大きな地図で 沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」 ‎ を表示

Related Posts Plugin for WordPress, Blogger...