沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第11講 柳原から土居下 第6回「八重一重(やえひとえ)咲き乱れたる──柳原御殿址」

八重一重(やえひとえ)咲き乱れたる──柳原御殿址

長栄寺へのびる参道と柳原のアーケード

長栄寺へのびる参道と柳原のアーケード. 柳原御殿を思わせるものはみあたらない

長栄寺の南の地に、江戸時代、八代藩主宗勝の第六子松平藤馬の豪壮な邸宅があった。世の人々は、この屋敷を柳原御殿と呼んでいた。広大な庭には、山あり、池あり、四季おりおりの花に彩られていた。特に春の桜の見事さ は圧巻であった。

柳原御殿の主、藤馬が寛政十三年(一八〇一)一月二十八日に亡くなってしまった。『高力猿猴庵日記』は、その死を次のように伝えている。

廿八日、柳原御殿、藤馬様御逝去。
二月三日まで物静、音曲、鳴物等御停止。
ただし、普請は不苦由。

藤馬の死を悼み、城下が喪に服してひっそりとしている様子がよくうかがえる記述である。藤馬が亡くなった後、柳原御殿は、その兄の松平掃部頭の別荘となった。松平掃部頭の夫人、聖聡院が享和三年(一八〇三)二月十三日、桜の花見に柳原御殿を訪れた時の歌が残っている。聖聡院は「やなぎはらのはな」の文字を歌の句ごとに置いて、四首の和歌を詠んだ。

八重ひとへ咲重なれる花盛 ながき春日も忘れてぞ見る
聞きしにも増る色香の庭桜 はる幾返りたち馴て見ん
らんまん(爛漫)と盛の花を吹からに のき端の松も匂ふ春風
はる毎に斯て盛を重ねなば 名高き花の庭と成なん

聖聡院が桜の花見を楽しんだ翌年、柳原に奇妙な事件が起こった。『高力猿猴庵日記』の文化元年(一八〇四)の四月十七日の記述である。

十七日、御祭礼渡る。聖惣院様、掃部頭様、御二方共、昨亥の年の通り、両所にて、御拝覧。
このごろ、怪異の業にや、男女の髪を切るよし。柳原辺、去方の召遣ひ女が切られたる沙汰、慥に聞けり。男も切られたる者有、あやしき事なり。

掃部頭と聖聡院が、昨年にひき続いて、那古野まつりの華やかな行列を見ている。世は泰平で、のどかで、何事もないかのように見える。しかし、どうにもならない鬱積した心情を髪切りという行為にかりたてた者がいる。柳原に現れた髪切り魔は、召使い女の髪を切り、男の髪も切ってしまった。猿猴庵は「あやしき事なり」と書いて、この日の日記の結びとしている。髪をどのようにして切るのか、猿猴庵ならずとも不思議な感じがする。

柳原御殿に、海東郡の蟹江村から八幡宮祭礼の神楽や馬の塔がやって来るという出来事があった。『猿猴庵日記』の文化七年(一八一〇)十月一日の記述である。

掃部頭様はたいへん物好きな方である。柳原御殿へ海東郡蟹江村で八月十八日、八幡宮の祭礼に出す太神楽、馬の頭の練物(ねりもの)(馬を飾りたててねり歩くこと)を御召し出しになられた。
一行は、今朝の未明、八ツ(午前二時)過ぎ頃より柳街道を納屋に通りかかり、川並から京町通りに入り武平町角から東大手でそろって、日の出のころ柳原北の裏門より御殿に入った。衣裳を改め、御座所(掃部頭の居室)の前で技芸(祭で行なう歌舞音曲)を行なった。
馬の頭の練物などおびただしい人たちが蟹江から来た。前日から八幡宮の祭礼の行列が来るといううわさはあったが、今日来るとは誰も知らなかった。
未明に太鼓の音が城下に鳴り響いた。人々は何事が起きたかと驚いたが、八幡宮の祭礼が来たと聞いて見物人がおしかけて来た。いまだかつて聞いたことのない珍事である。
蟹江の百姓たちは一世の晴れ舞台とはりきっていた。いろいろ芸をして、御殿はもちろん、町々においても評判をとろうと楽しみにしていた。
見物人が大勢おしかけ、御殿からも早々に引き退り、町々でも芸をすることも出来ず残念なことであった。
蟹江の村民には、御米三十石が下賜されたという。

松平掃部頭は文化八年(一八一一)に没した。別荘は日に日に廃れてゆき、文政二年(一八一九)にはとりこわされた。その跡地に柳原御側組という藩主の警固にあたる同心の屋敷ができ上った。

柳原御殿のあった辺りは、今は人家がぎっしりと立ち並び、往時をしのぶよすがは何一つ残っていない。

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