沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第1講 古渡七塚めぐり 第6回「鎧塚」

鎧塚

榎木白龍大神の旗の奥に「追遠報本」といわれる石碑が見える

榎木白龍大神の旗の奥に「追遠報本」といわれる石碑が見える

榎木白龍大神に、文が欠落していて、何が書いてあるのか判読に苦しむ石碑がある。判読に苦しむというより、判読できない石碑と言った方が正しいであろう。 『追遠報本』といわれる石碑である。欠けている部分を補った冒頭の部分は、次の通りである。

古語に忠と孝とは人道の大本とせり。されば遠くは君に忠を尽し、近くは祖に孝を致すを誠の人と云ひて、その祖先乃功績を顕すは、孝の極みにこそ。爰に愛知県士族鬼頭氏の祖先の履歴を、その家伝によりて記さむに水尾帝乃皇子貞純親王七代の孫従五位下左衛門尉源為義の八男、為朝に出づ世に鎮西八郎と呼ぶは是なり。保元の乱に伊豆国大島に配せらる嫡男義次其島に生る。のち家人に誘はれ出て尾張国愛知郡古渡里に来り住り。土御門帝の御時紀伊国に鬼党と称する賊起りしを義次に命じて討しめ給ふ。其時賊魁の頭を得て献ずるによりて鬼頭といふ家名を賜ひ、其軍功を賞して従四位下に叙し、左衛門尉に任じ、上西門院の判官代に補せらる後、古渡里に邸宅を構へて居れり。同所闇がりの森に八幡宮を祀り、氏神となし元興寺に七堂伽藍を造営して祈願寺とす。因て義次の霊牌肖像今にあり。

『追遠報本』の書かれた意図は、この部分によって明らかだ。鬼頭氏の系譜を辿ったものである。鬼頭氏一族の源流が為朝の子、義次であると述べ、闇之森八幡宮が氏神で、元興寺が祈願寺であるとしている。 本文に続いて、美保、義兼、兼信と鬼頭氏の系譜と事績を述べてゆく。特に事績が詳細に述べられているのは新田開発に貢献した鬼頭景義だ。 熱田新田、愛知郡中島新田、蟹江佐屋新田等二十七個所、二万二千石余を開墾し、さらに木津用水、萱津用水も開いている。

尾頭神社のすぐ脇に「鎧塚」がある(写真右側の石碑)

尾頭神社のすぐ脇に「鎧塚」がある(写真右側の石碑)

続く文章の中に古渡七塚のうちの鎧塚についての記述がみられる。

惟へらく吾家系統連綿して世々功績あるは偏に祖先の恩頼なれば其美名を後代に伝へむと、孝心益なりかの闇がりの森八幡社境内鎧塚と云へるは義次着用せし甲冑を埋めし旧地にて、其所に社殿も在しかど後世廃絶せしを悲み明治十六年官許を得て神殿を再建し、尾頭神社と称し同年十月十二日遷宮の式を行ひ為朝義次景義三朝臣の神霊を合祀す。

義次の着用した甲冑を埋めたとされる「鎧塚」

義次の着用した甲冑を埋めたとされる「鎧塚」

闇森八幡宮にある鎧塚は、義次の着用した甲冑を埋めた塚である。 その地に鬼頭氏の祖先の恩頼を称える意と美名を後世に伝える意で、為朝、義次、景義の三人を合祀する尾頭神社を再建したと述べている。

むかしたが植にし木々の年ふりて月さへもらぬ闇りの森

と刻まれた闇森八幡宮といえば、先ず何を思い出すであろうか。 『尾張年中行事抄』は、先ず片目の鮒の伝説を紹介している。

此社の御手洗に生ずる鮒皆一眼なり。此鮒一疋を取て瘧疾の咒誰とす。快気の後の他の鮒二疋を添えて御手洗に返す。皆片眼となる事奇なり。

続いて尻切螺を紹介している。

同所池に有螺悉尻切て有。祈願に用る事鮒に同じ。又旱魃の夏此螺を取て請雨を行ふ僧有。必奇特有。

伝説の社、闇森八幡宮で世の人々を震撼させる出来事が起こった。畳屋喜八と遊女小さんの心中事件だ。この心中を題材とした宮古路豊後掾の浄瑠璃『睦月連理想』が、黄金薬師の境内で上演された時には大入り満員が続いた。

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