沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第18講 三階橋より水分橋 第1回「五千人の農民橋に集まる──三階橋」

五千人の農民橋に集まる──三階橋

春日井市中央公園の南にある新明社

春日井市中央公園の南にある新明社

※この文章は2004年5月に執筆されたものです。

黒川治愿を顕彰する碑が春日井市内に四基建立されている。もっとも名文で書かれた碑文は中央公園の南、神明社に建っているものだ。 碑文は、次のように始まっている。

古人云、排百難而萬利生。吾嘗聞之。今見之。如愛知縣東春日井郡上條新田支渠是也。此地乏灌漑之利。所在唯荒原蕪地。其田園不過十之一。

碑文を書いたのは黄檗山管長林道永。明治二十八年十月二十五日に建立されたものだ。大意は、次のようだ。

さまざまな困難を乗りこえて、あらゆる利益が得られると昔の人は言ったが、今実際に私はこの目で、それを見ることができた。黒川治愿によって、木津用水から分流した上条新田の用水がそれである。もともと、この地は水の便が悪く、荒れはてた地が広がるばかりで、耕作できる地は、十の一に過ぎなかった。

続いて碑文は、上条新田の人々のくらしを述べている。

舊府之時一歳納租僅四十七石而已。大政復古舊緒維新。民生仍舊焉。明治九年更改租率而租額比舊三倍矣。故闔邑窘窮人不安堵。號叫請減租者前後不一再。終或鳴鼓撞鐘召徒集黨。相率請于郡于縣而官不容其請。督租益急。

新明社の中にある黒川治愿の顕彰碑

新明社の中にある黒川治愿の顕彰碑

江戸時代、一年に納める米は四七石だけであった。大政は復古し明治維新となったが、人々のくらしは、徳川時代と少しも変わらなかった。明治九年に地租が改定された。租税は江戸時代より三倍も多く納めなければならなかった。村人は困り果ててしまった。減租を何度も訴えたが聞き入れてもらえなかった。とうとう太鼓を鳴らし、鐘をついて人々を集め郡役所に県庁に強訴した。しかし願いは聞き届けられず、ますます取りたては厳しくなった。

地租改定に反対する農民運動の様子が生々しく記述されている。春日井郡の改租係は荒木利定であった。夜中に松明をつけて、土地を調査したり、反対する農民に「鎌止め」(イネの刈り取りの中止)を命じたり「無二無三の取計」をしたので地租改定の農民運動は激しくなっていった。

反対運動の中心になって活躍したのが林金兵衛だ。農民運動は明治十年六月に始まり、明治十二年三月まで続いた。この運動に要した費用は、およそ九千円。米に代えると約一八五〇石である。碑文にある上条新田の江戸時代の納租四七石と比較するといかに大金であったかがわかる。

東京に林金兵衛たちは出かけ交渉するが、なかなからちがあかない。明治十一年十月、明治天皇の名古屋巡幸があった。農民たちは天皇に直訴しようと三階橋の袂に四、五千人の農民が集まってきた。  金兵衛は橋の中央で必死になって「直訴をするなら自分の生命を奪ってから橋を渡ってくれ。生命も財産もすべて捨てるから自分にとにかくまかせてほしい」と農民を説得した。

農民は金兵衛の熱意におされて解散をした。朝宮公園にある碑文には、「政有備木曽川至名古屋之船路者也乎」と当時の人々の木津用水改修にかかわる批評が書かれていた。木曽川から名古屋に通じる船路を開くことが、今もっとも必要とされる政治であろうかという意だ。この批評は、地租改定運動とは無関係なものではない。

三階橋という橋の由来は、矢田川の流れに架かる橋、そして川の流れの下を伏越しで堀川が通じていて三重になっているから付けられたものだ。橋の下を流れる黒川治愿によって開削された堀川。橋の上では、船路を開くより地租をなんとかせよと天皇に強訴するために集まった農民。なんとも劇的な場面だ。

三階橋は明治九年堀川の水路が完成した時に、その掘りあげた土で道幅が三間に広げられた犬山街道に架けられた橋だ。大正十四年の洪水で旧橋は流失。昭和二年コンクリート橋がしゅん工した。長さ一二八・七メートル、幅は一〇・九メートルである。

三階橋

三階橋

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