沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第20講 杉村界隈 第3回「かれは是れ吾れにあらず 普光寺」

かれは是れ吾れにあらず 普光寺

道元禅師と用典座(ゆうてんざ)の問答を描いた石像

道元禅師と用典座(ゆうてんざ)の問答を描いた石像

※この文章は2004年3月に執筆されたものです。

明暮れに うつ鐘の音も聞ずして 又も日暮るる浮世なりけり

杉村八景の一つ、普光の晩鐘を詠んだ歌である。普光寺の晩鐘の音色のすばらしさは、古くから知られていた。その普光寺の鐘を鋳る時に、ある人が、

ふめたたらやれふめたたらふめたたらせいさへ出せば金ハわくわく

という歌を詠んだ。おりから説法で常滑からきていた青洲という和尚が「やれふめたたら」の筒所を「ふめふめたたら」と直した。直すことで、鐘を鋳る時の調子のよさが五・七・五の頭韻の「ふ」によってよく表れてくる。

普光寺は御器所の竜輿寺の僧、儀存和尚が天正五年(一五七七)に開基した寺である。塩釜様とも呼ばれていたが、 これは嘉永年間(一八四八~五四)に、仙台より金綱天貌和尚が塩釜明神を招請したからである。本尊は織田信長の 秘仏、快慶作の阿弥陀三尊仏。

山門を入ると、老僧と若い僧とが問答している大きな石像が目に入る。若い僧は道元禅師、老僧は中園、天童山の用典座(ゆうてんざ)。典座とは、禅の修行道場における食事をつかさどる役のことだ。道元が天童山にはじめて登ったのは、貞応二年(一二二三)二十四歳の時であった。

石像は、嘉禎三年(一二三七)に道元が撰述した『典座教訓』のなかの一場面である。『典座教訓 赴粥飯法』(中村璋八ほか全訳注、講談社学術文庫)より、この場面の訳文を紹介する。

私が中国に留学して、天童山で修行していた折、地元の寧波(ニンポー)府出身の用という方が典座の職に任じられていた。 私は、昼食が終わったので、東の廊下を通って超然斎という部屋へゆこうとしていた途中、用典座は仏殿の前で海藻を干していた。その様子は、手には竹の杖をつき、頭には笠さえかぶっていなかった。太陽はかっかっと照りつけ、敷き瓦も焼けつくように熱くなっていたが、その中でさかんに汗を流しながら歩きまわり、一心不乱に 海藻を干しており、大分苦しそうである。背骨は弓のように曲がり、大きな眉はまるで鶴のように真っ白である。 私はそばに寄って、典座の年を尋ねた。すると典座はいう。「六十八歳である」。私はさらに尋ねていう。「どうし てそんなお年で、典座の下役や雇い人を使ってやらせないのですか」。典座はいう。「他人がしたことは、私がしたことにはならない」。私は尋ねていう。「御老僧よ、確かにあなたのおっしゃる通りです。しかし、太陽がこんなに熱いのに、どうして強いてこのようなことをなさるのですか」。典座はいう。「(海藻を干すのに、今のこの時間が最適である)この時間帯をはずしていつやろうというのか」。これを聞いて、私はもう質問することができなかった。私は廊下を歩きながら、心のなかで、典座職がいかにたいせつな仕事であるかということを肝に銘じた。

道元が「如何んぞ行者、人工(にんく)を使わざる」と尋ねる。典座は「他(かれ)は是れ吾れにあらず』と答える。他人のしたことは、自分のしたことにはならない。自分が心をこめて仕事をする、それが典座の仕事だという意だ。 「更に何れの時をか待たん」には、今できることは今せねばならないということだ。

眼病に効験があるという弘法地蔵

眼病に効験があるという弘法地蔵

境内には弘法地蔵が建っている。大曽根の坂下にあった弘法の井戸のかたわらにあったものが城東町に移り、さらに昭和六十三年、普光寺に遷座した。眼病に効験があるという。

むかし弘法大師が熱田から小幡の龍泉寺へ参詣の途中、大曽根に檀をかまえて修行をした。その閼伽(あか:仏に供える水や花)の水を汲んだことから弘法の井戸と呼ばれるようになった。『尾張名陽図会』は、

(弘法大師の)旧跡が今も残っていてすべり山という。その地には草が生えないという。この時に阿伽の水を汲みなさったところを阿伽塚(あかつか)という。今の赤塚町がこれである。

と、赤塚の町名由来を記している。弘法地蔵の前には、香煙がたちこめている。地蔵の眼のあたりは黒ずんでいる。 地蔵の眼をなで、一日も早く快癒することを願う人が多いからであろう。

地図


より大きな地図で 沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」 ‎ を表示