沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第18講 三階橋より水分橋 第5回「石山寺道──下街道」

石山寺道──下街道

石山寺の塀に面して道標が立っている

石山寺の塀に面して道標が立っている

※この文章は2004年5月に執筆されたものです。

石山寺の東の細い道を北に歩いてゆく。寺のコンクリート塀の北側に新しい道ができている。この広い道は、寺の裏で行き止まりになっている。 塀に面して小さな石柱が立っている。標識のようだ。字が摩滅していて、よく読めない。少し距離を置いて標識をながめる。石山寺道と刻まれている。西面には、寛政七卯五月吉日と刻まれている。寛政七年(一七九五)に建てられた石山寺への道を示す標識だ。

今、来た道を、老人が犬を連れて歩いてくる。「この標識は、どこに建てられていたものか」と聞いてみる。老人は、近くに住んでいらっしゃる方だ。「標識が、ここにあることを初めて知った」とおっしゃる。 石山寺の裏に、石山寺に行く標識があるのは、おかしい。下街道沿いに建っていた標識が、道路を拡幅する時に、この場所に移し変えられたのだろうと言われる。

「下街道の庄内川の南に、善光寺道と記した標識がありますよ」

老人に言われて、善光寺街道の標識を探しに出かけた。かつての下街道は、天神橋から勝川橋まで国道十九号の北側の瀬古の地を抜けている道だ。下街道は、善光寺街道とも呼ばれる。車がひっきりなしに走る国道十九号にひきかえ、かつての下街道は狭い道で、通る車もまれだ。

かつての下街道沿いに祀られている天王社

かつての下街道沿いに祀られている天王社

石山寺から下街道に出て左に折れると天王社がある。石を組んだ上に小さな祠が祀ってある。祠は小さなものだが、社にある公孫樹は大木だ。下街道を旅人が往来していた頃は、この祠が瀬古の鎮守の社であったのだろう。

瀬古小学校の所で、下街道は行き止まりになっている。小学校の南側の道を歩いてゆくと銘酒東龍の醸造元、東春酒造がある。東春酒造の屋敷は、丸石を積み立てた上に建てられている。水屋と呼ばれる造りだ。

庄内川と矢田川にはさまれている瀬古の地は水害との戦いであった。文化十二年(一八一五)から明治三十九年(一九〇六)までの九十年ほどの間に矢田川・庄内川の堤防決壊の記録は十回を数える。

『青窓紀聞』の中に嘉永三年八月六日、矢田・庄内川が堤防決壊をした時の巡見記録が載っている。『青窓紀聞』の著者、水野正信は八月二十五日に瀬古村に来て、被害状況を、次のように記している。

仮橋を渡り南瀬古に至る。三ケ所の切あり。第一の澪六十二間、六日の夜半に切れたり。澪先の沙入、凡八町なり。地平より七尺沙高になる。澪先の在家は廿軒斗り。低き処は軒口二尺斗り残り、皆沙に埋没す。隄添の一軒は、全沙中に埋めり。夜具の類少しづつ沙中より掘出せり。倒れ木の流れ懸りしは沙上に見ゆれども、小竹杉坦などは穂先斗り見ゆ。
隄に添たる寺は石山寺なり。地少し高く塀の腰板の上、七八寸に水痕見ゆ。門前に米田一反斗り残れり。実のりながら水腐して、用に立たず。
〔『青窓紀聞』は『もりやま』(十四号、加藤英俊「春日井郡・愛知郡における重田・重畑の分布」)より引用した。〕

濁流が瀬古の里に流れこむ。水は村をおしつつむ。洪水が去った後の村は砂にうずもれてしまう。夜具類も砂から掘り出すような状態だ。洪水の恐怖をあます所なく描いた一文だ。高い石垣の上に建っている東龍の水屋は、度重なる水害の教訓から人命や家具を守るために造られたものだ。

かつての下街道と銘酒東龍の醸造元の東春酒造

かつての下街道と銘酒東龍の醸造元の東春酒造

庄内川の真下にある国道十九号の交差点の左側に、小さな祠が二つ並んで建っている。右側が天王社、左側が善光寺道の標識だ。右側の祠の中に入っている五十センチほどの地蔵菩薩が、標識の役割をはたしているのだ。地蔵菩薩には、左ぜんこうじ道 右里うせんじ道と刻まれている。 これが、老人に教えて頂いた下街道の標識だ。

下街道は、庄内川を渡ると、勝川、内津へと続く。『尾張徇行記』には「勝川渡船一艘、自分造作。船頭四人、船賃駄荷十文、人六文、旱ニハ渉リ也」とある。もっとも藩主通行のおりには船橋を架けたという。

昔時とすっかり様子が変わってしまった下街道の変遷を、往時から変わらず見つめているのは、この地蔵菩薩だけかも知れない。

天王社と善光寺道の標識も兼ねる地蔵菩薩

天王社と善光寺道の標識も兼ねる地蔵菩薩

地図


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