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名古屋市では、昭和4年(1929年)を目途に人口100万突破が予想され、これを記念して名古屋市を20のブロックにわけて居住者の名前を記入した住宅全図が制作がされました。しかし、昭和金融恐慌もあって人口100万突破は昭和9年にずれ込み昭和8年、再度住宅全図が制作されました。
*このエリアの主な出来事*
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大正4年(1914年)、第一次世界大戦が勃発、日本も参戦し戦勝国の一員となりました。日本本土は戦災を受けなかったこともあり、新興国家米国とともに生産拠点として貿易を拡大させ、日本経済は空前の好景気となりました。しかし、第一次世界大戦による大戦景気が終焉すると戦後不況に陥って企業や銀行は不良債権を抱えることになりました。また、大正12年9月1日に発生した関東大震災は、日本経済におおきな混乱もたらし昭和金融恐慌の要因となりました。
大正8年(1919年)4月5日に都市計画法と市街地建築法が公布され、全国一律に都市計画を実施することになりました。大正10年、千種町、東山村、中村町、愛知町、常盤村、御器所村、呼続町、笠寺村、八幡村、荒子村、小碓町、六郷村、 清水町、杉村、金城村、枇杷島町の16町村が名古屋市に編入され、名古屋市の市域面積は東京市の2倍、人口は60万を超え東京・大阪につぐ 全国第3位の大都市になりました。 名古屋市では、昭和4年(1929年)を目途に人口100万突破が予想され、これを記念して住宅全図が制作が進みます。しかし、昭和金融恐慌もあって人口100万突破は昭和9年にずれ込みました。名古屋市を20のブロックにわけて居住者の名前を記入しています。
このシリーズでは順次、ブロックことに紹介するとともに100年前の名古屋の様子を現在と対比して画像で紹介します。
堀川の浄化
堀川は名古屋城とは切っても切れない関係にあるわけです。名古屋城築城以来の色々な産業、経済のいわば源だったです。この堀川を何とか再生をしないといけないと考えています。
名古屋城の北側に名城水処理センターがあります。名城水処理センターから流れている水のほとんどは堀川に流れています。これを何とか綺麗な水にして堀川に流すことで、かなり堀川の水がきれいになるのではないかと思います。また、堀川に堆積したヘドロも水質悪化の原因となっています。私は専門家ではないので解決方法については分かりませんが、このヘドロの除去は堀川浄化にとっての大きな命題だと思います。
堀川はかって名古屋の産業、経済の軸であったわけですが、これからは、環境文化の都市軸として再生するべきだと提案しています。現在、松重閘門は機能していませんが、ふたたび堀川と中川運河をこの閘門でつなぐことが必要です。松重閘門は名古屋城と同等の観光資源だと考えています。堀川、中川運河の周辺にある歴史遺産を、フィールドミュージアムとし、舟運で巡ることで、その価値が増すと思います。露橋水処理センターが完成し中川運河の水質が一変し、非常にきれいになりました。名城水処理センターも露橋水処理センターと同じレベルで水質を浄化することで堀川もきれいになると思っています。
ウッドデッキで堀川沿いを歩くことができれば、おそらく通勤客も含めて人の流れが出来ると予想します。名古屋駅周辺と栄地区とうまく繋げることが必要です。現状では堀川で東西が断絶しています。堀川沿いに人の流れが出来ることで、東西がつながると思います。必ずしも私が提案した案ではなくても、例えば地上面にプロムナードをつくるとか、とにかく人の流れを作ることが重要だと考えています。また、災害時のことを考えれば、道路を使った場合、避難するのに色んな障害で時間がかかります。堀川、中川運河を災害時のルートとして活用するために、舟運の活用を考えるべきだと思っています。
h5>愛知・名古屋の木の文化
尾張藩は木曽の木材を使って名古屋城を築城し、その後堀川開削によって木曽の山から豊富な木材が集積されることで、名古屋城築城に関わった職人達が堀川周辺に住み着いて木を使ってものづくりを始め、そういうものがきっかけで木の文化が生まれました。そのことが、世界に冠たる愛知・名古屋のものづくり大国につながって来たわけですが、大量生産、大量消費の線形経済社会から循環型経済社会に向けて、木造で名古屋城下全体を復元すべきではないかと言うのが、私のここの所の活動の原点となっています。
城郭の形として、例えば姫路城を見ましても多門櫓が無いとお城の形が整いません。その意味では名古屋城においても、北東隅櫓再建も含めて多門櫓の復元が次の段階として必要だと思います。さらに私は歴代の藩主が住んでいた二之丸御殿を復元して、本丸御殿とは違う形で、赤坂離宮迎賓館、京都迎賓館などに加え国の三つ目の迎賓館として二之丸御殿を復元すべきではないかと考えています。
本丸御殿と比べると正確な図面はありません。一つ頼りになるのは金城温古録です。金城温故録には、立面図をふくめて多くの資料がありますし、最後の尾張藩の藩主(徳川慶勝)が写真好きで色々な角度から撮影しています。また本丸御殿と同じような形であったと言われていますので、これも参考にしながら復元することは可能だと思っています。
名古屋城三の丸には分散はしていますが、かなり豊かな緑があります。世界の有名な都市をみても緑がかなり多い。官公庁の庁舎も古くなっていますし、建替えの時期を迎えています。建替えについては、ITの技術を大いに利用するなかで施設の規模は大いに圧宿できる、極端な話6割とか7割に圧宿が可能だと考えています。緑を増やす、私は勝手に「三の丸の森」とネーミングをつけています。森を中心にその周辺に天守閣のスカイラインを超えない程度の庁舎、しかも木造でつくるべきではないかと提案しています。
東鮓の初代横井清七は、1860年の初頭に江戸に修行に行きました。親戚が横浜で貿易商をやってたので、一旗揚げるためイギリスと貿易する会社で勉強しようと思い横浜にゆきました。ところが貿易商の近くに御鮓屋さんがあって、そこで鮓を食べたらすごく旨かった。貿易を勉強するより、鮓の作り方を学ぼうということになりました。貿易商をやめて鮓屋に修行に入りました。七、八年そこで修行をして、鮓づくりを 総合的に学びました。
当時、名古屋では煮物や焼き物はありましたが、鮓をたべる習慣はありませんでした。初代横井清七は名古屋で初めて、酢味のご飯に、伊勢湾で獲れたコノシロとか小鯛、コサバ酢じめにして握って販売しました。江戸前とは、江戸の前で取れた魚で作ったものを意味しますので、伊勢湾で獲れたものを鮓にすれば名古屋前というのが本当です。「江戸前、江戸前」と言ってる鮓が沢山ありますが、あれは嘘になります。東京からわざわざ魚を持ってきて鮓にしているわけではないので、江戸風という言葉とごっちゃになって使われているように思われます。大阪では周辺でアナゴが良く獲れるので、アナゴを炊いてタレをつけた押し寿司や巻きずしが盛んです。名古屋へ帰ると、人通りが多い所に屋台をでして鮓屋を始めました。店舗を構えたのは明治3、4年の頃です。明治5年(1872年)には、2店舗目を出しています。
明治29年(1896年)、御園座が開場しました。東鮓と御園座との縁は深く、二代目の横井清次郎に御園座の食堂部の運営を任されることになりました。材料とか器などをスムーズに運搬するために、人が一人、二人通れる業務用トンネルを作って行き来していました。私も現物を見たことがあります。現在の松島書店さんのあたりにありました。
鈴木バイオリンが別荘として使用していた土地を山ごと買って、その頂上に宴会場(向陽館)をつくり、その周辺の山腹に小さな調理場と座敷を備えたバンガロー風の建物を配置し、そこを廊下でつなぎました。「東鮓の百閒廊下」と呼ばれ名をはせました。しかし、昭和18年、戦時下の企業整備令で強制的に徴用、陸軍の司令部となったことで、アメリカ軍の空襲目標となり惜しくも焼失しました。
戦後は、広小路の本店を中心にして、消費者が持ってきたお米の対価として鮓を渡すといった、統制経済化での物々交換スタイルでの営業となりました。私が物心ついた昭和20年代後半には、いまでは想像できませんが御園座周辺は大変な繁華街で、東鮓本店の多くのお客さんでにぎわっていたのを覚えています。
社内新規事業の実践者が取組紹介も兼ね、ファシリテーター陣とともに過去座談会のポイントを振り返るトークをします
テーマ1:自分がやりたいこと、そのために必要なこと【個の視点】
テーマ2:中部圏をアップデートするための課題と乗り越えるためにやりたいこと【チーム・組織・会社・社会を巻き込む視点】
各チームによる発表とファシリテーターによる講評まとめ
2023年10月9日(日)、名古屋市栄の久屋大通公園をメイン会場として都市型のクラシックカーのイベント「コッパ・チェントロ・ジャポネ」が開催されました。今年の展示・テーマは3つあり、1つは昨年に引き続き、名古屋の姉妹都市トリノで生まれたクルマです。日本のモータリゼーションの勃興期である1960年代、トリノで生まれたクルマたちはひときわ輝かしい存在でした。その頃に創刊されたカーグラフィック(CG)では、トリノのカロッツェリアの華麗なデザインがたびたび紹介され、読者の憧れの気持ちを掻き立てたものでした。
2つ目のテーマは、今年100周年を迎えたル・マン24時間レースです。100年の間には、実に様々なドラマがありました。今年のルマン24時間レースも、トヨタ、フェラーリ、プジョー、ポルシェ、キャディラックが、トップを奪い合う熾烈なレース展開でした。そんな100年の物語のヒーローたちにジャコバン広場ならぬ久屋大通公園に集結していただきます。
3つ目のテーマは、ミニマムな車たちで、戦前のサイクルカーやオースチン7やダットサンから、戦後のバブルカーや360ccまでの軽自動車などの、それぞれの時代の技術を集約して最小限にまとめたエコカー(エコノミック&エコロジー)です。そして、ジブリパークを応援する特別展示として、ジブリ作品に登場する劇中車を再現した展示を行い、それに関連してトワイライトタイムから久屋シネマとして、映画『カリオストロの城』の上映を行います。
「他社との接点を事業成長の武器にして自社の変容を加速する」「中部圏企業の横のつながりを形成し地域共通課題に向き合う」ことを目的に、危機感・課題感をもつマネージメント層が集い、課題・悩み・実践事例などを共有し、アクションにつなげる全4回のプログラムです。そして、コミュニティの継続により、会社・地域を巻き込んだオープンでチャレンジしやすい風土づくりをめざします。
今年度3回目の今回は、経営者層との対話回に挑戦。
リピーターが役4割でガレージに初めて来訪する方が2割程度の、馴染みの方とフレッシュな出会いが入り混じる交流会です。
過去回では、企業風土やクラッシックなルールが変革の障壁をどう変えていくのか、という議論で盛り上がりました。
組織やチームを任された管理者だからこそ、自ら行動し周囲を巻き込むことで会社を変えていく。
社外で同じように頑張る管理者層の仲間が集う場で、今回も激動の時代を勝ち抜くための議論を交わし、未来への行動につなげます!
関ケ原の戦いに勝利した徳川家康は、来るべき豊臣家との決戦に備えて低地で水責めに弱い清洲からの移転を考えた。数ある候補地の中から清洲の南東に当たる名古屋台地が選ばれた。台地の北端に名古屋城が築城され、その南側は、京都にならって東西に十一列、南北に九列の正方形に区画された。碁盤割と呼ばれている。
1660年、万治の大火が発生し、城下の大半が焼失した。南端にあった堀切筋は、防火のため4倍以上拡幅され広小路が建設された。広小路では、芝居、物まね、居合抜きのなどの芸がおこなわれ、多くの人でにぎわった。しかし江戸時代の名古屋城下の基幹道路は本町通であった。
明治時代初頭までは、美濃路の名古屋宿にあたる現在の伝馬町本町交差点周辺が金融の中心地であった。現在の三菱UFJ銀行の前身にあたる旧名古屋銀行や三井銀行の名古屋支店、名古屋株式取引所が集まっていた。明治10(1877年)、広小路通の終点の南久屋町に愛知県庁が建築された。
明治19年(1887年)、あたりは沼地と湿地帯のなかに突貫工事で笹島に名古屋駅が開業した。名古屋駅開業にあわせ、 長者町から名古屋駅までの広小路拡幅延長工事が行われた。
明治22年(1889年)、市制施行により名古屋市が誕生、市役所庁舎は現在栄交差点南西角(現在の栄スカイル)に置かれた。明治31年(1898年)には名古屋電気鉄道によって日本で2番目の笹島から久屋町までの区間で電気鉄道が開業した。その後、国鉄中央線の千種駅が開業し、広小路通の延長によって道路を塞ぐように建っていた県庁舎の移転工事が行われ、現在の愛知芸術文化センター周辺に新庁舎が竣工した。
明治32年(1899年)、明治座を手本に名古屋で最初の大劇場「御園座」が落成。明治37年(1904年)には、現在の栄交差点北東角(現錦三丁目25番街区)に日本銀行名古屋支店が新柳町から移転した。明治40年(1907年)、名古屋市役所庁舎が火災により焼失、現在の中区役所のある場所に新築された。
明治43年(1910年)、鶴舞公園で第十回関西府県連合共進会が開催された。この博覧会に向けて栄町周辺のインフラ整備が進んだ。栄町まで大津町通の拡幅工事が行われ、火災で焼失した名古屋市役所の跡地に名古屋初の百貨店、いとう呉服店が茶屋町から移転、新築された。日銀名古屋支店の東、広小路沿いに中央バザールという小売商人に売り場を賃貸する建物も開業した。
大正時代に入ると周辺市町村の名古屋市への編入が行われ、名古屋市の市域面積は東京市の2倍、人口は60万を超え東京・大阪につぐ 全国第3位の大都市になった。1926年、大正天皇が崩御され年号は昭和に改められた。昭和4年(1929年)昭和天皇の行幸に向けて、本町通りの整備が行われた。昭和時代初頭の広小路沿線には、銀行などの金融機関、百貨店などの商業施設が軒を連ねていた。昭和8年(1933年)、名古屋市役所が現在地に移転、昭和13年(1933年)、愛知県庁も市役所の南隣に移転。官庁街が栄町から三之丸への移転がはじまった。
昭和9年(1934年)、市の人口が100万人を突破。名古屋汎太平洋博覧会の開催(昭和12年)が決まり、名古屋駅の移転・新築、桜通の建設などのインフラ整備が行われた。広小路通には、名古屋観光ホテルが開業した。
昭和20年8月15日、太平洋戦争が日本の敗戦で終わった。碁盤割を中心とした名古屋の旧市街地の50〜60%が焼失した。戦後の復興が始まった。日本に3本ある100m道路のうちの2本の久屋大通と若宮大通の建設が開始された。広小路沿線でも昭和27年(1952年)に丸栄百貨店、昭和29年(1954年)には栄町交差点南東角に オリエンタル中村百貨店が開業した。昭和32年(1957年)地下鉄が開通、地下街ができるまでは、広小路沿線には多くの映画館が軒を並べ広ぶらを楽しんだ。
リニア中央新幹線の名古屋~東京間の2027年部分開通が決まり、名古屋駅周辺では超高層ビルの建設があいついでいる。地盤沈下が叫ばれている栄地区においても遅ればせながら再開発が始まった。2019年1月には、Park-PFI制度を使った久屋大通公園整備運営事業が開始され、2020年9月にHisaya-odori Parkとしてグランドオープンした。また2019年4月から中日ビルの建て替え工事(地上33階、地下5階)が始まり、2024年春のオープンに向けた準備に入っている。栄交差点北西角、「錦三丁目 25番街区計画」も2022年7月に開始され、 ホテル、オフィス、シネコン、商業施設が集積した地上211mの名古屋の新たなランドマークとなるシンボルタワーとして2026年夏頃完成を目途に工事が進んでいる。
名古屋駅と栄を結ぶ広小路通の役割は、さらに大きくなると予想される。