Network2010.org - 名古屋100km圏内の情報発信ネットワーク https://network2010.org/ 2024-07-11T16:01:05+09:00 堀川と納屋橋 2024-06-27T18:05:55+09:00 2024-06-30T14:54:44+09:00 https://network2010.org/article/2237

【動画】堀川と納屋橋

英語版の映像はここをクリック

インタビュー要約

山岸 博之(東陽倉庫(株)元役員 NPOゴンドラと堀川水辺を守る会会長)

昭和時代の終わり頃、名古屋市さんから納屋橋地区再開発計画の話の提案がありました。それを受けて、民間も再開発やりましょうという運びになりました。再開発計画を進めて行く段階にでは、非常に大きなあの構想がありました。しかし、その後バブル経済の崩壊とかリーマンショックなどが発生して、経済や金融情勢の悪化した結果、計画規模を縮小することになりました。
1999年5月15日、新名古屋ミュージカル劇場が開館しました。(注2016年8月21日21日に閉館し名古屋四季劇場と改名して名古屋駅南エリア移転されています。)残った3300坪で再開発しようと計画されました。資材や人件費の高騰で再開発の開始が遅れましたが、8年前に再開発が開始され、6年前(2017年9月)、完成にいたりました。

株式会社 アリア 代表取締役 彦坂 洋介

閏(うるう)年にも老若男女が集って、食事、お茶、演劇、ライブ、ラジオの収録などの食とエンターテイメントを楽しめる彩りのある施設をめざし、COLORS.366と名前にしました。まず1階にはフードコートのスタイルの名古屋市、愛知県の実績のある飲食店が6店舗あります。堀川沿いの屋外のテラス席は100席以上ございます。コンセプトは大人のフードコートです。
この周辺には買い物する環境があまり整っていませんので、週末ごとに近隣の方たちに新鮮なお野菜とかお魚を提供する定期的なマルシェとかオーガニックイベントなどの開催やキッチンカーの稼働も計画しています。また皆様に、いろんなイベントをこの屋外のテラスを使ってやっていただけたらと思います。最近は、インバウンドの観光客の利用者が増えています。観光客や周辺住民の増加して、商業施設が増えて地域が盛り上がることを願っていますCOLORS.366もその中の1つのランドマークになればいいなと思っています。

名古屋市緑政土木局河川部 堀川総合整備担当課長 内山尚一

名古屋市は、堀川を整備するにあたり、治水、浄化、にぎわい、をテーマとして進めています。治水においては、川の断面を広くし1時間に63ミリの雨を流せるような河川改修事業を進めています。にぎわいにつきましては、平成24年に「堀川街づくり構想」作り、地域の方と一緒に取り組んでいます。民・産・学・官がで連携して取り組むような体制をつくり「にぎわいづくり」を進めているところです。
納屋橋周辺は名古屋駅と栄のちょうど中間に位置して都市部における貴重な水辺空間だと考えてます。今までは、河川敷では営利活動が規制されていましたが、規制緩和によってそれができるようになってきました。水辺活用推進事業では、我々が地域の方が水辺活用ができるような仕組み作りに取り組んでいます。また遊歩道をつくることで堀川沿いを縦に散策できるようなインフラ整備を行っています。平行して舟運の充実を図っています。名古屋城から納屋橋、河口の熱田にいたる堀川沿岸に、桟橋や船着き場を整備しています。これらを活用して、舟運の運用を促進したいと考えています。
堀川沿いの、ある程度まとまったスペースは浸水空間・浸水広場として整備しております。親水広場は、市民が賑いを促進するイベントなどに使える仕組み作りを整備しています。皆様の親水広場の積極的な活用を期待しています。

掲載映像の一部

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100年前の名古屋-中区03 2024-06-08T13:05:31+09:00 2024-06-11T11:21:47+09:00 https://network2010.org/article/2236 中区❸

中区❸

総合索引
①中区❶
②中区❷
③中区❸

名古屋市では、昭和4年(1929年)を目途に人口100万突破が予想され、これを記念して名古屋市を20のブロックにわけて居住者の名前を記入した住宅全図が制作がされました。しかし、昭和金融恐慌もあって人口100万突破は昭和9年にずれ込み昭和8年、再度住宅全図が制作されました。

中区❸

現在の該当地区

中区③

100年前の名古屋-中区③

  • 上段左

  • 上段中

  • 上段右

  • 中段左

  • 中段中

  • 中段右

  • 下段左

  • 下段中

*このエリアの主な出来事*

明治43年(1910)、火災で焼失した名古屋市役所跡地に株式会社いとう呉服店が移転。大正14年(1925)、松坂屋と改称し南大津通の現在地に移転。跡地には栄屋として営業した。
明治44年(1911)、日本銀行名古屋支店の東隣に小売商人に売り場を賃貸する中央バザールが開業。
名古屋YMCAは、明治35年(1902)に日本で6番目の都市YMCAとして設立された。大正14(1925)に中区南瓦町、 739.8m2の敷地に名古屋YMCA瓦町会館が竣工した。

100年前の風景と地図

  • 南大津通

  • 松坂屋

  • 栄町交差点西から

  • 栄町交差点北から

  • 栄屋(いとう呉服店跡)

  • 日本銀行

  • 栄町交差点東から

  • 中央バザー

  • 明治生命

  • 愛知県会議事堂

  • 愛知県庁

  • 東新町交差点北から

  • 陸田ビル(名大病院の分院)

  • 花甚商店東新町交差点

  • 東新町交差点南から

  • 岡田洋紙店東瓦町

  • 広瀬商店西瓦町

  • 名古屋YMCA瓦町会館

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若き日の後藤新平-名古屋での足跡を語る- 2024-06-03T11:08:23+09:00 2024-06-03T19:11:10+09:00 https://network2010.org/article/2235

【動画】若き日の後藤新平 名古屋での足跡を語る

英語版の映像はここをクリック

YouTubeでの視聴はここをクリック

後藤新平の風

インタビュー要約

名古屋大学医学部長・研究科長 木村宏教授

明治4年(1871年)、名古屋藩の仮医学校・仮病院が尾張藩の評定所・町方役所(名古屋市中区丸の内2丁目4−7)に設立された事をもって名古屋大学の創設期としています。明治6年(1873年)、医学講習場として、本願寺名古屋別院に移築されました。明治10年(1876年)、公立医学所と改称されて、翌年堀川東岸の天王崎町に移転しました。病院だけでなく医学校もあり写真にも残っていますが 当時としては、かなり大きな規模の病院・学校だったと考えられています。
後藤新平先生は、岩手県奥州市のご出身で、医学を学んだのは須賀川医学校だと聞いております。恩師の方が愛知学校に来られ、請われて名古屋に赴任されたと聞いています。名古屋には20代前半でこられ、明治10年(1881年)に24歳という若さで医学校の校長・病院長に就任されています。その後、明治23年(1890年)公衆医学を学びにドイツに留学されています。 帰国後、厚生大臣に当る役職に就かれています。先生は、名古屋に赴任中のころから公衆衛生の普及に尽力されました。
後藤新平先生が名古屋大学医学部の前身である愛知県医学校の校長であったことは世間一般にあまり知られておりません。在任期間が短期間で、また若いころの出来事だった事が理由にあげられます。しかし彼は、名古屋大学医学部の前身の第2代目の学校長・病院長であり、それ故、名古屋大学にとって大事な人物だと考えています。後藤新平先生の足跡は、当校の歴史に深く残っていますし、誇りに感じています。

眼科三宅病院 三宅謙作会長

後藤新平さんはもともと医師であり、医療、社会福祉、公衆衛生が専門分野で公的な色んなルールをつくられました。しかし、世の中はルールだけでは駄目で 民間の活力にどういう風に結びつくかが大事です。私の一族は、この民間の活力の一つのいい例だと思います。自分の一族の話をするのは非常におこがましいのですが、こういった立場で基本的にお話したいと考えています。
私の一族は岐阜県の恵那郡明智の出身で、明智光秀にも関係があると言われています。三宅家の伊之衛門、さと夫婦の間には3人の子供(1人は死亡)がありました。二男琢次郎は井口家の養子に入り、妹かちは愛知県西加茂郡の小原村の杉田家に嫁ぎだ結果、  三宅、井口、杉田の三家に分かれました。井口家に養子にいった琢次郎が後藤新平と非常に縁深い存在でした。琢次郎は優秀であったので、後藤新平は就学年齢未満の15歳でありましたが愛知医学校の入学を許しました。我が一族で初めて医者が誕生しました。
 一方、小原村に嫁いだかちの亭主は、当時盛んであった小原歌舞伎に没頭し家庭を顧みませんでした。杉田かちは、これに愛想をつかし息子二人を連れて名古屋に出奔しました。かちの長男餘三は名古屋市西区で開業し、三宅病院、眼科杉田病院のルーツとなりました。私の父方の祖父が三宅弁次郎、母方の曾祖母が杉田かちになります。かちが名古屋に出たことで、60人ほどの医師が生まれました。井口家と合わせると70人ほどの医者が我が一族にいるという日本でもめずらしい例となっています。しかし元をただせば後藤新平さんの行動がきっかけになっています。その意味で我々の存在自身が後藤新平に関係あるんじゃないかと思いつめている最近の状況です。

一般社団法人 後藤新平の風 大澤 和宏代表理事

後藤新平は名古屋ではほとんど知られていません。私は放送(NHK)出身なので、後藤新平が1925年に社団法人東京放送局(NHK前身)設立時の初代総裁(1年間)であり 2025年に100周年を迎えることもあり後藤新平のことが頭の片隅にありました。後藤新平は名古屋大学の前身の医学校をつくられた一人であり、その後官僚としても政治家としても活躍するなかで、結構名古屋に関係あるんじゃないかと言うことが段々わっかてきました。魅力のない街と言われる名古屋の原因が、人にまつわるストーリーが余りにも無さすぎると思いはじめ、後藤新平を少しまじめに調べてみようと思ったのがスタートです。
一般社団法人後藤新平の風を立ち上げたことが中日新聞の記事になりました。非常に大きな反響があり、さまざまな方から問い合わせがありました。お会いして行く中で、後藤新平の教え子の家系である医師の方がかなりお見えになることが分かりました。医療関係では後藤新平の影響の大きさを感じた次第です。その後、現在の名古屋大学の杉山総長、前総長の東海国立大学機構の松尾機構長にお会いした際に、名古屋大学のPRの必要性を感じておられ、会の活動に賛同の意を伝えられたこともあり今後の活動へのはずみがつきました。

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100年前の名古屋-中区02 2024-04-20T13:31:51+09:00 2024-06-11T11:13:32+09:00 https://network2010.org/article/2232 中区❷

中区❷

総合索引
①中区❶
②中区❷
③中区❸

名古屋市では、昭和4年(1929年)を目途に人口100万突破が予想され、これを記念して名古屋市を20のブロックにわけて居住者の名前を記入した住宅全図が制作がされました。しかし、昭和金融恐慌もあって人口100万突破は昭和9年にずれ込み昭和8年、再度住宅全図が制作されました。

中区❶

現在の該当地区

中区❶

100年前の名古屋-中区②

  • 上段左

  • 上段中

  • 上段右

  • 中段左

  • 中段中

  • 中段右

  • 下段左

  • 下段中

  • 下段右

*このエリアの主な出来事*

大正11年(1922年)、名古屋市は名古屋電気鉄道から市内線を買収し市電が誕生した。
大正12年(1923年)、旭遊郭が中村へ移転。市電岩井町線が水主町まで延伸された。
大正13年(1924年)、大津町通の完成によって栄町で止まっていた市電が大津町まで延長された。
大正14年(1925年)、松坂屋が南大津町に新店舗開店、跡地に栄屋開業。
愛知県商品陳列館は、大須門前町に建てられたルネサンス様式の堂々たる建物。昭和9年(1934年)に取り壊された。
昭和7年(1932年)、名古屋株式取引所の新本館完成

100年前の風景と地図

  • 御園座

  • 料亭鳥銀別館 松林

  • 入江町 料亭五月本店

  • 入江町 料亭鳥勝

  • 住友ビル

  • 広小路南長島町

  • 関西信託名古屋支店

  • 三菱銀行名古屋支店

  • 名古屋銀行本店

  • 広小路本町

  • 八百屋町 青木鰹節店

  • 広小路 中村呉服店

  • 日本楽器製造名古屋出張所

  • 広小路本町 高麗屋

  • 鉄砲町 岡谷合資

  • 本町通 鉄砲町一丁目

  • 鉄砲町二丁目 浅野甚七商店

  • 鉄砲町三丁目 森本本店

  • 本町通 末廣町

  • 広小路 明治銀行本店

  • 住吉一丁目 後藤証券

  • 広小路住吉町 名古屋郵便局

  • 広小路 十一屋百貨店

  • 広小路 朝日神社前

  • 広小路 明治屋名古屋支店

  • 栄町 日本生命名古屋支店

  • 栄町交差点 栄屋

  • 栄町 シキシマパン販売所

  • 栄町交差点

  • 栄町 日本銀行名古屋支店

  • 栄町交差点

  • 大津通 松坂屋前

  • 大津通 東邦瓦斯営業所

  • 松坂屋

  • 南大津町二丁目 福壽生命

  • 家具のデパート 丸武

  • 大須赤門通

  • 中公設市場

  • 大須万松寺商店街

  • 万松寺通 ツチヤ洋服デパート

  • 大須末廣通二丁目

  • 羅紗問屋 西脇本店

  • 愛知県商品陳列館

  • 大須門前町 本町通

  • 大須仁王門通

  • 大須観音仲見世

  • 大須観音表参道

  • 大須観音本堂

  • 旭廓案内図

  • 旭廓跡 花園町

  • 岩井通 七ツ寺

  • 名古屋西別院

  • 岩井通 ワシノ商店

  • 岩井通

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100年前の名古屋-中区01 2024-04-09T18:49:45+09:00 2024-06-11T11:14:06+09:00 https://network2010.org/article/2231 中区❶

中区❶

総合索引
①中区❶
②中区❷
③中区❸
中区❶

100年前の名古屋-中区

現在の中区❶

現在の該当地区

大正4年(1914年)、第一次世界大戦が勃発、日本も参戦し戦勝国の一員となりました。日本本土は戦災を受けなかったこともあり、新興国家米国とともに生産拠点として貿易を拡大させ、日本経済は空前の好景気となりました。しかし、第一次世界大戦による大戦景気が終焉すると戦後不況に陥って企業や銀行は不良債権を抱えることになりました。また、大正12年9月1日に発生した関東大震災は、日本経済におおきな混乱もたらし昭和金融恐慌の要因となりました。

大正8年(1919年)4月5日に都市計画法と市街地建築法が公布され、全国一律に都市計画を実施することになりました。大正10年、千種町、東山村、中村町、愛知町、常盤村、御器所村、呼続町、笠寺村、八幡村、荒子村、小碓町、六郷村、 清水町、杉村、金城村、枇杷島町の16町村が名古屋市に編入され、名古屋市の市域面積は東京市の2倍、人口は60万を超え東京・大阪につぐ 全国第3位の大都市になりました。 名古屋市では、昭和4年(1929年)を目途に人口100万突破が予想され、これを記念して住宅全図が制作が進みます。しかし、昭和金融恐慌もあって人口100万突破は昭和9年にずれ込みました。名古屋市を20のブロックにわけて居住者の名前を記入しています。

このシリーズでは順次、ブロックことに紹介するとともに100年前の名古屋の様子を現在と対比して画像で紹介します。

人口推移

人口推移

  • 上段左

  • 上段中

  • 上段右

  • 下段左

  • 科段中

  • 科段右

100年前の風景

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堀川・中川運河の未来への提言 2024-03-23T10:29:23+09:00 2024-04-09T15:31:34+09:00 https://network2010.org/article/2230

【動画】堀川・中川運河の未来への提言

堀川の浄化

堀川は名古屋城とは切っても切れない関係にあるわけです。名古屋城築城以来の色々な産業、経済のいわば源だったです。この堀川を何とか再生をしないといけないと考えています。
名古屋城の北側に名城水処理センターがあります。名城水処理センターから流れている水のほとんどは堀川に流れています。これを何とか綺麗な水にして堀川に流すことで、かなり堀川の水がきれいになるのではないかと思います。また、堀川に堆積したヘドロも水質悪化の原因となっています。私は専門家ではないので解決方法については分かりませんが、このヘドロの除去は堀川浄化にとっての大きな命題だと思います。

松重閘門の復活

堀川はかって名古屋の産業、経済の軸であったわけですが、これからは、環境文化の都市軸として再生するべきだと提案しています。現在、松重閘門は機能していませんが、ふたたび堀川と中川運河をこの閘門でつなぐことが必要です。松重閘門は名古屋城と同等の観光資源だと考えています。堀川、中川運河の周辺にある歴史遺産を、フィールドミュージアムとし、舟運で巡ることで、その価値が増すと思います。露橋水処理センターが完成し中川運河の水質が一変し、非常にきれいになりました。名城水処理センターも露橋水処理センターと同じレベルで水質を浄化することで堀川もきれいになると思っています。

堀川・中川運河、未来への提言

ウッドデッキで堀川沿いを歩くことができれば、おそらく通勤客も含めて人の流れが出来ると予想します。名古屋駅周辺と栄地区とうまく繋げることが必要です。現状では堀川で東西が断絶しています。堀川沿いに人の流れが出来ることで、東西がつながると思います。必ずしも私が提案した案ではなくても、例えば地上面にプロムナードをつくるとか、とにかく人の流れを作ることが重要だと考えています。また、災害時のことを考えれば、道路を使った場合、避難するのに色んな障害で時間がかかります。堀川、中川運河を災害時のルートとして活用するために、舟運の活用を考えるべきだと思っています。

掲載映像ダイジェスト

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SDGs未来都市「木造都市へ」名古屋城郭の再生 2024-02-29T11:15:22+09:00 2024-04-09T15:31:17+09:00 https://network2010.org/article/2229

【動画】SDGs未来都市「木造都市へ」

h5>愛知・名古屋の木の文化

尾張藩は木曽の木材を使って名古屋城を築城し、その後堀川開削によって木曽の山から豊富な木材が集積されることで、名古屋城築城に関わった職人達が堀川周辺に住み着いて木を使ってものづくりを始め、そういうものがきっかけで木の文化が生まれました。そのことが、世界に冠たる愛知・名古屋のものづくり大国につながって来たわけですが、大量生産、大量消費の線形経済社会から循環型経済社会に向けて、木造で名古屋城下全体を復元すべきではないかと言うのが、私のここの所の活動の原点となっています。

多門櫓、二之丸御殿の再建

城郭の形として、例えば姫路城を見ましても多門櫓が無いとお城の形が整いません。その意味では名古屋城においても、北東隅櫓再建も含めて多門櫓の復元が次の段階として必要だと思います。さらに私は歴代の藩主が住んでいた二之丸御殿を復元して、本丸御殿とは違う形で、赤坂離宮迎賓館、京都迎賓館などに加え国の三つ目の迎賓館として二之丸御殿を復元すべきではないかと考えています。
本丸御殿と比べると正確な図面はありません。一つ頼りになるのは金城温古録です。金城温故録には、立面図をふくめて多くの資料がありますし、最後の尾張藩の藩主(徳川慶勝)が写真好きで色々な角度から撮影しています。また本丸御殿と同じような形であったと言われていますので、これも参考にしながら復元することは可能だと思っています。

名古屋城三の丸地区の未来像

名古屋城三の丸には分散はしていますが、かなり豊かな緑があります。世界の有名な都市をみても緑がかなり多い。官公庁の庁舎も古くなっていますし、建替えの時期を迎えています。建替えについては、ITの技術を大いに利用するなかで施設の規模は大いに圧宿できる、極端な話6割とか7割に圧宿が可能だと考えています。緑を増やす、私は勝手に「三の丸の森」とネーミングをつけています。森を中心にその周辺に天守閣のスカイラインを超えない程度の庁舎、しかも木造でつくるべきではないかと提案しています。

掲載映像ダイジェスト

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名古屋鮓物語 2024-02-13T15:40:53+09:00 2024-02-14T10:58:10+09:00 https://network2010.org/article/2228

【動画】名古屋鮓物語

華の名古屋の碁盤割
①江戸時代
②明治10年
③明治20年/30年代
④明治末期/大正
⑤昭和初頭
⑥昭和33年
⑦現在の碁盤割
⑧御園通
⑨広小路物語
⑩広告で見る四区時代
⑪名古屋鮓物語
鮓づくりとの出会い

東鮓の初代横井清七は、1860年の初頭に江戸に修行に行きました。親戚が横浜で貿易商をやってたので、一旗揚げるためイギリスと貿易する会社で勉強しようと思い横浜にゆきました。ところが貿易商の近くに御鮓屋さんがあって、そこで鮓を食べたらすごく旨かった。貿易を勉強するより、鮓の作り方を学ぼうということになりました。貿易商をやめて鮓屋に修行に入りました。七、八年そこで修行をして、鮓づくりを 総合的に学びました。

名古屋初の鮓店開業

当時、名古屋では煮物や焼き物はありましたが、鮓をたべる習慣はありませんでした。初代横井清七は名古屋で初めて、酢味のご飯に、伊勢湾で獲れたコノシロとか小鯛、コサバ酢じめにして握って販売しました。江戸前とは、江戸の前で取れた魚で作ったものを意味しますので、伊勢湾で獲れたものを鮓にすれば名古屋前というのが本当です。「江戸前、江戸前」と言ってる鮓が沢山ありますが、あれは嘘になります。東京からわざわざ魚を持ってきて鮓にしているわけではないので、江戸風という言葉とごっちゃになって使われているように思われます。大阪では周辺でアナゴが良く獲れるので、アナゴを炊いてタレをつけた押し寿司や巻きずしが盛んです。名古屋へ帰ると、人通りが多い所に屋台をでして鮓屋を始めました。店舗を構えたのは明治3、4年の頃です。明治5年(1872年)には、2店舗目を出しています。

御園座発展とともに

明治29年(1896年)、御園座が開場しました。東鮓と御園座との縁は深く、二代目の横井清次郎に御園座の食堂部の運営を任されることになりました。材料とか器などをスムーズに運搬するために、人が一人、二人通れる業務用トンネルを作って行き来していました。私も現物を見たことがあります。現在の松島書店さんのあたりにありました。

向陽館の百間廊下

鈴木バイオリンが別荘として使用していた土地を山ごと買って、その頂上に宴会場(向陽館)をつくり、その周辺の山腹に小さな調理場と座敷を備えたバンガロー風の建物を配置し、そこを廊下でつなぎました。「東鮓の百閒廊下」と呼ばれ名をはせました。しかし、昭和18年、戦時下の企業整備令で強制的に徴用、陸軍の司令部となったことで、アメリカ軍の空襲目標となり惜しくも焼失しました。

敗戦からの復興

戦後は、広小路の本店を中心にして、消費者が持ってきたお米の対価として鮓を渡すといった、統制経済化での物々交換スタイルでの営業となりました。私が物心ついた昭和20年代後半には、いまでは想像できませんが御園座周辺は大変な繁華街で、東鮓本店の多くのお客さんでにぎわっていたのを覚えています。

東鮓本店の歩み

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次世代経営のための異業種交流会#4 2024-02-13T13:18:17+09:00 2024-02-14T10:21:56+09:00 https://network2010.org/article/2227

【動画】次世代経営のための異業種交流会#4

名古屋まるわかりINDEX
①Nagoya Innovator's Garage
②君の気づきが、地域を変える
③次世代経営のための異業種交流会第1部
④次世代経営のための異業種交流会第2部
⑤イノベーションマインドの育成へ! 中経連 水野会長に聞く
⑥STEAM FAMILIY サマーフェス
⑦次世代経営のための異業種交流会#2
⑧次世代経営のための異業種交流会#3
⑨次世代経営のための異業種交流会#4

次世代経営のための異業種交流会#4

~マネージメント層向け変革アクティベートプログラム~

第一部 実践者とのトーク「過去座談会で浮き彫りになった課題と今後」(30分)

社内新規事業の実践者が取組紹介も兼ね、ファシリテーター陣とともに過去座談会のポイントを振り返るトークをします

第二部  マネージャー座談会 (110分) 

テーマ1:自分がやりたいこと、そのために必要なこと【個の視点】

~中間報告~

テーマ2:中部圏をアップデートするための課題と乗り越えるためにやりたいこと【チーム・組織・会社・社会を巻き込む視点】

第三部(30分)

各チームによる発表とファシリテーターによる講評まとめ

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COPPA CENTRO GIAPPONE 2023-12-20T17:46:33+09:00 2023-12-21T11:37:22+09:00 https://network2010.org/article/2220

【動画】COPPA CENTRO GIAPPONE

COPPA CENTRO GIAPPONE

2023年10月9日(日)、名古屋市栄の久屋大通公園をメイン会場として都市型のクラシックカーのイベント「コッパ・チェントロ・ジャポネ」が開催されました。今年の展示・テーマは3つあり、1つは昨年に引き続き、名古屋の姉妹都市トリノで生まれたクルマです。日本のモータリゼーションの勃興期である1960年代、トリノで生まれたクルマたちはひときわ輝かしい存在でした。その頃に創刊されたカーグラフィック(CG)では、トリノのカロッツェリアの華麗なデザインがたびたび紹介され、読者の憧れの気持ちを掻き立てたものでした。

2つ目のテーマは、今年100周年を迎えたル・マン24時間レースです。100年の間には、実に様々なドラマがありました。今年のルマン24時間レースも、トヨタ、フェラーリ、プジョー、ポルシェ、キャディラックが、トップを奪い合う熾烈なレース展開でした。そんな100年の物語のヒーローたちにジャコバン広場ならぬ久屋大通公園に集結していただきます。

3つ目のテーマは、ミニマムな車たちで、戦前のサイクルカーやオースチン7やダットサンから、戦後のバブルカーや360ccまでの軽自動車などの、それぞれの時代の技術を集約して最小限にまとめたエコカー(エコノミック&エコロジー)です。そして、ジブリパークを応援する特別展示として、ジブリ作品に登場する劇中車を再現した展示を行い、それに関連してトワイライトタイムから久屋シネマとして、映画『カリオストロの城』の上映を行います。

コッパ・チェントロ・ジャポーネHPから引用

掲載映像のダイジェスト

  • ラルフローレン前広場

  • ルマン24時間レース100周年 Pre War

  • ルマン24時間レース100周年 Pre War

  • ルマン24時間レース100周年 Pre War

  • ルマン24時間レース100周年 Pre War

  • ルマン24時間レース100周年 Pre War

  • ルマン24時間レース100周年 Pre War

  • ルマン24時間レース100周年 Pre War

  • ミズべヒロバ

  • ルマン24時間レース100周年

  • ルマン24時間レース100周年

  • オアシス21

  • 学まもる車

  • 学生フォーミュラー Automobile Art

  • 学生フォーミュラー Automobile Art

  • キッズ・カート

  • 中部電力MIRAI TOWER南側

  • ルマン24時間レース100周年

  • ルマン24時間レース100周年

  • ルマン24時間レース100周年

  • ルマン24時間レース100周年

  • ルマン24時間レース100周年

  • ルマン24時間レース100周年

  • 中部電力MIRAI TOWER下

  • ルマン24時間レース100周年

  • ルマン24時間レース100周年

  • ルマン24時間レース100周年

  • ルマン24時間レース100周年

  • ルマン24時間レース100周年

  • テレビトーヒロバ

  • スタジオ・ジブリ作品劇駐車

  • スタジオ・ジブリ作品劇中車

  • スタジオ・ジブリ作品劇中車

  • スタジオ・ジブリ作品劇中車

  • Japanese Histric Rally Cars

  • Japanese Histric Rally Cars

  • Japanese Histric Rally Cars

  • Japanese Histric Rally Cars

  • Japanese Histric Rally Cars

  • ケヤキヒロバ

  • トリノ生まれのクルマたち

  • トリノ生まれのクルマたち

  • トリノ生まれのクルマたち

  • トリノ生まれのクルマたち

  • トリノ生まれのクルマたち

  • トリノ生まれのクルマたち

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