沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第10講 下街道大曽根界隈 第6回「了義院」

了義院

了義院

了義院

『尾張名陽図会』は、了義院を次のように説明している。

此地元は冷谷山成就院とて不動尊を本尊とせし真言宗の寺なりしが、いつしか荒廃してありしを安永年中峯上人といふ人、摂津国野勢の妙見の尊像をうつし仏工に彫刻せしめ是を本尊として一寺を建つ。了義院と号して法花の霊場とせらる。かの不動尊は本山の長久寺に納めらる由。

『金鱗九十九之塵』には「慶安三年(一六五〇)の頃までは広井の納屋裏の地に有しが其後大曽根の今の地に引移る」と記されている。いずれにしろ古い由緒のある寺である。

荒廃した廃寺を、安永七年(一七七八)十月一日に小牧町笹屋伝兵衛が心願し、再建にとりかかった。天明四年(一七八四)十一月二十四日、大光寺が譲り受けて、改宗して大光寺の末寺とした。天明六年(一七八六)山号も妙見山了義院とし、一如院日法を開山とした。

右が戦災後継ぎあわされた句碑、左が昭和24年に建立された新しい句碑

右が戦災後継ぎあわされた句碑、左が昭和24年に建立された新しい句碑

有とあるたとへにも似ず三日の月

という芭蕉の三日月塚が境内にある。

芭蕉が貞亨五年(一六八八)の秋に、この寺の辺を通った時に詠んだ句である。寛保三年(一七四三)、五条坊木児が建立した。

五条坊木児は京町に住んでいた商人で、俗称は御糸屋彦六、支考の門下の俳人である。 句碑は、昭和二十年(一九四五)の戦災で、こなごなになってしまった。焼跡から残石もひろい出して、コンクリートで継ぎあわせて句碑に仕立てたものが建っている。

句の一部が欠けたりしているので、新しい句碑が昭和二十四年(一九四九)に建立された。 この碑の傍らに、戦災で、焼けた句碑が建っている。

大雪のはづれに見出す朝日哉

という台界の句を刻んだ、高さ三尺(九〇センチ)強の砂岩(佐久島)で出来た句碑だ。台界は馬州門下の俳人。子息の暁台の高弟、袋青が父の供養のために建立したものである。

  • 境内の句碑と解説板

    境内の句碑と解説板

  • 三日月塚の解説板

    三日月塚の解説板

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