沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第11講 柳原から土居下 第3回「赤レンガの紡績工場──旧三井名古屋製糸所」

赤レンガの紡績工場──旧三井名古屋製糸所

取り壊し工事中だった旧三井名古屋製糸所の赤レンガ建物。撮影:2012年10月18日

取り壊し工事中だった旧三井名古屋製糸所の赤レンガ建物。撮影:2012年10月18日

ケネディ空港、アメリカの首都ワシントンなど個人の名前をつけた空港、都市は外国には数多くある。日本にも豊田市など企業名から都市の名前が付けられた例はあるが、個人名が町名や都市の名となっている例はあまりないであろう。

北区に黒川という町がある。堀川の上流部は黒川と呼ばれている。木津用水を改修し、木曽川の水を堀川に導水した愛知県の土木課長、黒川治愿(はるよし)の名をとって付けられた町名であり、川の名前である。黒川治愿の名は、町名となり、川の名前となって残ったが、黒川治愿の事績を知る人は数少くなってしまった。

「北区を流れる堀川のほとりには数多くの紡績工場がありました。そこから垂れ流す悪水のために、堀川が汚れてしまい、黒い川になってしまいました。堀川はいつしか黒川と呼ばれるようになりました」ある古老が語った言葉だ。

始めは冗談であると思って聞いていたが、真顔で真剣におっしゃっていたので驚いた。紡績工場のために、堀川が汚れ黒川と呼ばれるようになったと信じている人は、話を聞いた古老だけではなく、きっと大勢いらっしゃることであろう。古老の語られたように、黒川には明治期以来多くの紡績工場が建てられた。時代の流れと共に隆盛をほこった工場も、いつしか川端から姿を消してしまった。

今、唯一往時の姿をしのばせている赤レンガの建物が堀川端に残っている。八王子中学校の西にある東急鯱バスの寮に、現在はなっている建物だ。赤レンガの建物は、明治二八年(一八九五)から三〇年(一八九七)にかけて建設された三井財閥の三井名古屋製糸所の建物である。

映画の『あゝ野麦峠』では、諏訪の赤レンガ造りの紡績工場で働く女工の悲惨な生活が描かれている。苛酷なノルマに追われ、低賃金で酷使され、体は蝕まれてゆく。赤レンガは明治の時代を象徴する建物だ。西欧文明を代表する赤レンガの堅牢な建物の中では、女工たちが体に鞭打って働いていた。

名古屋に三井製糸所が建てられた明治二八年は三井財閥が、工業資本に進出を始めた年である。黒川に林立する紡績工場の煙突からはき出される煙は、新しい日本の工業が発展する姿を現すものであった。赤レンガの中では、くる日も、くる日も、女工たちが糸を繰って働いていた。

この建物を施工したのは竹中工務店である。明治二四年(一八九一)の濃尾震災の教訓を生かして耐震・耐火造りであった。昭和四七年(一九七二)に解体されて、現在は鯱バスの所有となっている。 受付にことわって、鯱バスの敷地の中に入り、赤レンガの建物に見入っていた。

敷地の中には、次から次にと系列の鯱タクシーが入ってくる。鯱バスの寮には、各部屋ごとに冷暖房の設備がしてある。厚いレンガ積みの壁面に、冷暖房の設備が突き出ている。遠く故郷を離れて、名古屋に出てきたバスガイドさんたちが住んでいるのであろうか。女工哀史の明治の時代と異なり、現在の赤レンガの建物の住人は、快適な生活を営んでいるようだ。

※編集注: 記事は執筆時(2003年)のものを、そのまま掲載しています。鯱バスの寮として使用されていた赤レンガの建物は現在(2012年10月18日取材時)、取り壊し工事中でした。

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