沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第3講 七墓巡礼歌のみち 第14回「金銀みつる長者町―はずれ灯籠」

金銀みつる長者町―はずれ灯籠

長者町通の両側には織物問屋が軒を連ねている

長者町通の両側には織物問屋が軒を連ねている

長者町といえば、繊維問屋街の代名詞として使われるほど、長者町通の両側には織物問屋の店が軒を並び、いつも活気に満ちている。 一宮、尾西、江南、津島と名古屋の近郊には、織物産業で名をはせた街が数多くあり、生産量もけた外れに多い。近郊の街で生産された織物を集め、全国の商店に売りさばく、長者町は、取引きで訪れる人で賑わいを呈し、通りには商品を積む車が、いつも店の前に並んでいる。

明治期には、本町通りが、一流の問屋が店を構えるメインストリートならば、裏通りの長者町は二流の問屋街だった。杉の町通りの古着商から商売換えをした商人や伊藤次郎左衛門など呉服問屋の旧家でたたきあげられた番頭が独立した十数軒の問屋街ができ上がっていた。

昭和十一年(一九三六)頃になって上長者町で九軒、下長者町で四十八軒の店が軒を並べた。 戦後の繊維不足の流れに乗り、長者町にまたたく間に、問屋でうずまり、他の商売が入りこむ余地はなくなってしまった。戦前の倍以上の百数十軒の店が並ぶ全国有数の問屋街ができあがった。何人もの長者が住む町となった。名古屋開府以来、始めて文字通りの長者町となった。

『那古野府城志』は、長者町を次のように記している。

上長者町 役銀二貫十九匁 長者町通り 京町より桜町、慶長十六亥年(一六一一)爰に遷り、旧に因て名とす。井深二丈四五尺、土黒土赤土下さば、御祭礼 二福神車、初道成寺、享保十七子年(一七三二)二福神に改む。 下長者町 役銀八百四十一匁 長者町通 伝馬町より本重町、清須越の年月不詳、仍旧下長者町と称す。井水土前町に同。

上長者町は、慶長十六年の清須越の町。清須当時の町名をそのまま用いた。 名古屋まつりには、

   嗚呼善尽し美を尽しつつ 財振までも気持ち得ならぬ    鯛釣り揚る ごまなぐりぶち 舟の玉子を槌でがい割る

と詠まれた二福神車が出る。 下長者町の清須越の年月は不詳。町名は清須当時の名をそのまま用いた。

上長者町にある那古野神社

上長者町にある那古野神社

上長者町に、明治三十二年(一八九九)、須佐之男神社から那古野神社と改号された神社がある。今も森厳なたたずまいを残している。 この神社の歴史は古い。延喜十一年(九一一)醍醐天皇の勅によって天王社が創建された。祭神は素盞鳴尊で亀尾天王社とも呼ばれた。天文元年(一五三二)、那古野合戦で焼失、八年後に織田信秀が再興した。文禄四年(一五九五)には、豊臣秀吉が社領三百四十八石余を寄進した。名古屋遷府の後も、藩租徳川美正は、天王社を名古屋の鎮守とし、名古屋城下の氏神とした。 明治維新で天王社は須佐之男神社と改められた。明治九年、名古屋城府は陸軍の用地となったため上長者町の明倫堂跡ヘ遷座した。

那古野神社能楽堂の南、私有地の畑の中に猫の額ほどの畑がある。畑の中には奇妙なことに燈籠が二基立っている。傍らにはつくばいも置かれている。那古野神社の宮司にお尋ねすると「神社とは何の関係もありません。畑の持主がどこからか持ってきたのでしょう」と言われた。 古くからこの地に住んでいる方に聞くと、「八草という料亭が近くにありましたが、そこのものではないでしょうか。神社に通じる小路が畑のあたりにありました。神社と何らかの関係のあるものではないか」と言われた。

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