沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第12講 味鋺界隈 第6回「森の中の記念碑──忠魂社」

森の中の記念碑──忠魂社

忠魂社

忠魂社

味鋺神社を出て、庄内川の堤防下の道を真っ直ぐ西にむけて歩いてゆく。すこし歩くとこんもりと茂った森が見えてきた。森の中に何があるだろうか、興味を持って森をめざして歩いて行った。

森の中には小さな神社があった。鳥居の傍らに皇紀二千六百年建立と書かれた記念碑がある。皇紀二千六百年といえば、昭和十五年だ。神武天皇が橿原宮ではじめて即位したときから起源二千六百年にあたるとして、各種の奉祝行事が行われた年である。この年の十月十二日には第二次近衛内閣の下で、国民統制組織である大政翼賛会が発足した。十一月十日には、宮城前広場で、盛大な皇紀二千六百年の記念式典が行われ五万五千人の人が参加した。

樹々の間に埋もれ、ひっそりと建っているこの皇紀二千六百年の記念碑を揮毫したのは、名古屋出身の松井石根だ。松井石根は、当時陸軍大将であった。中国大陸で、中支那派遣軍の司令官として指揮をとっていた。中国大陸では、戦火が次第に大きく燃えあがろうとしていた。近衛内閣の陸軍大臣は、東条英樹であった。後に昭和二十三年(一九四八)の極東裁判で松井石根も東条英樹も戦争責任を問われて絞首刑に処せられた。

鳥居の傍らの樹々の間に隠れるようにして、顔を出している松井石根の揮毫した皇紀二千六百年の記念碑は、過去の遺物が、のっそりと顔を出してきたような錯覚に陥った。昭和十五年、皇紀二千六百年の年には全国民は新しい国家が大政翼賛会の下で生まれると期待し、大いにわきたった。味鋺地区でも盛大な僕式が行われ、その記念碑が神社の樹々の中に隠れているものだ。

蜘蛛の巣がはっている、森の中に入ると薮蚊に攻められた。石段を上がってゆく、社殿の前に猫が鎮座していた。この神社の社守は、俺だと言わんばかりに身じろぎもせずに、こちらを見ている。社殿の裏にも記念碑が建っている。岡田弘という方が建てられたものだ。岡田家で戦死された三人の方の記念碑である。

神社の隣に、洋館がみえる。神社と隣家とは一体になっているような感じだ。神社は岡田家の個人のものであろうかと思ったが、社殿には寄進された多数の方の名前が記されている。神社の名前は何と呼ぶのか、森の中を調べてもわからない。不思議に思って、帰宅して『名古屋市楠町誌』を開いてみた。忠魂碑の由来という次のような一文を見つけた。

忠魂社は、楠町味鋺一、七〇〇番地の岡田家の屋敷内に、邨内忠魂社として昭和十五年九月二十三日に創立されましたが、昭和四十九年十二月二十三日味鋺字名栗三十五番地のオチン山に遷座申しました。続いて四月上旬に忠魂碑を建立し、三忠魂の戦歴を碑に彫刻し、永久に其の功績をたたえんと建碑除幕の式典を護国社社祢宜岩本氏が斎主となり、慰霊安鎮のお祭りを執行しました。
御祭神は、創立当時は三忠霊を祭り、その後、靖国大神、伊勢の大神、西八龍大神、東八龍大神等を合祀しました。
尾張徳川家の家老、竹腰公にお仕えした武士で白石と申す人が、現在の名古屋市鷹匠町に住んでいました。竹腰公が毎年此の付近一帯にこられて鷹狩りをされた時、白石さんはお供をして来られて、此の山にオチンを建てられたのです。
岡田家は先祖代々この味鋺に住んでいて、オチンの維持管理をして、殿様の御越しの時は一生懸命に御歓待申し上げたので、其の功により、このオチン山付近一帯をもらい受けたものです。  現在は、日露戦争並に、日支事変、大東亜戦争でお国の為に戦死した約二四六万人の御霊を併せてお祀り申し、毎日、慰霊安鎮の感謝の誠を捧げています。

『楠町誌』でも異例の一節だ。他の文章と異なり、この神社の説明文だけは、岡田家の方が記されたもののようだ。一つの神社のたどる運命、それはまた、この国の歴史の流れを表すものでもあった。

忠魂社社殿

忠魂社社殿

地図


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