小学校が建っていた寺──鶏足寺
一本の道が如意を抜けて、大我麻に通じている。細い道をバスが用心深く走ってゆく。大我麻町に高速道路の楠JCTができてから、この道はJCTに通じる裏道となって、いつも交通渋滞をひき起している。味美から如意を通り比良にぬける、この道は如意の町を通っている数多くの道路のなかでも、最も古い道路のひとつである。大正十一年(一九二二)に県道として勝川から如意まで、その翌年に比良まで開通した。この道の道幅は四メートルであった。
楠町が名古屋市と合併し、如意が新興住宅地に変わるまで、この道は如意の幹線道路であった。如意が新興住宅地になると共に、新しい道が幾つも開通した。古くからある道路も、道幅が拡張され、都会の道路へと変貌していった。しかし、この道だけは、昔のままで全く変わることはなかった。大正の時代からの民家が、道路沿いにびっしり建っていて、道路を拡張することができないからだ。この道を、味美からのんびりと歩いてくると如意の里が、どのようなたたずまいであったかがわかるだろう。
瑞応寺の住職が「私の寺を開基した石黒重行の文書は寺に残っています。しかし、位牌は、この寺にはなくて鶏足寺にあります。寺の留守番の人が居るはずです。寺の二階にありますから尋ねられたらどうですか」と言われた。瑞応寺から、古い如意のたたずまいを残す道を歩いて鶏足寺に来た。
寺の塀の向こうに、樹木に囲まれた中に標識板が建っている。そこには「楠小学校発祥の寺」と書かれている。如意小学校の前身、如意義校が創設されたのは明治六年(一八七三)である。楠小学校発祥の寺と書かれているのは、校舎の設備がないので、鶏足寺が学校として、創立時に使われたからである。その頃の授業は、読み書き、そろばんが中心の教師がひとりだけの寺子屋方式であった。鎌倉、室町時代の教育はもっぱら寺院で行われていたので、それにちなみ江戸時代の初等教育機関を寺子屋というが、如意義校は、文字通りの寺子屋であった。
鶏足寺で授業が行われたのは、一年間だけで、明治七年には如意義校は観音堂(如意の字名)に移っていった。如意尋常小学校として、木造校舎ができたのは、明治十年(一八七七)のことである。明治三十九年(一九〇六)味鋺、如意の二つの村が合併したので、翌年には如意尋常小学校は廃校となり、新しく楠小学校となった。
鶏足寺について『尾張徇行記』は
鶏足寺書上帳に界内一反六歩、此の寺草創は知れず。再建は元禄年中七世憲俊阿闍梨なり。この寺先年蜂須賀村蓮華寺に属せしが、寛永年中より味鋺護国院に属せり
と記している。
『尾張志』には
鶏足坊 如意村にあり。味鋺村護国院天永寺の末寺なり
と記されている。
岳持院の住職と話していたおり、「鶏足寺は、護国院の住職の隠居所でした。その後、いつからか庵主(尼僧)さんが守をされるようになりました」と言われた。鶏足坊が鶏足寺と名称が変わったのは、昭和二十七年のことである。古い由緒のある寺であるが、隠居寺になったり、尼寺に変わったりして、この寺の変遷も著しいものがある。
如意に住みついた人は加羅系(新羅)の海人族でないかと先に述べたが、それを証明するのが、この鶏足寺ではなかろうか。鶏足は、新羅の別名鶏林から来たものと思われる。滋賀県の湖北地方は、新羅系渡来人のメッカで、現在でも新羅王子というアメノヒボコや祖神を祀る神社が各地にあり、木之本には鶏足寺があって、観光バスで訪れる人も多い。(『北区の歴史』長谷川国一)
鶏足寺を新羅との関連で考察した一文である。
木之本の己高閣にある鶏足寺は、行基が開いた寺である。湖北地方には数多くの十一面観音が点在している。若い日に屈託した思いで、湖北の十一面観音を尋ね歩いた日々があった。鶏足寺の十一面観音はとりわけ美しく見えた。はからずも如意の里で、湖北の十一面観音を思い浮かべていた。
鶏足寺は無人で、石黒重行の位牌を見ることはできなかった。なんとか見ることはできないかと思い、鶏足寺を新しく建てかえた時の建設委員長であった牧野行夫さんを尋ねてお願いした。
「鶏足寺には檀家がないので、しばらく無住の状態がありました。昭和二十七年(一九五二)東海高校を退職された三田政晋先生がこの寺に入られました。三田先生は、戦前、京城の真言宗智山派の大きな寺の副住職をされていた人です。この方は東海高校の退職金を全部つぎこんで、寺の門などを寄進された。寺を解体している時に布にくるまれた立派な仏像が発見されました。石黒重行とその夫人、そして主だった家臣の位牌も見つかりました。三田先生は、宗派を越えて葬儀をこの寺で挙げられました。お孫さんを後継者にと考えられて托鉢にも連れて歩いてみえたが、うまくいきませんでした。三田先生が亡くなって檀家のない寺に入る人はいない。村では番をする人を頼んでお守りをしているわけです」
お願いした仏像と位牌の拝観は、今月は急用があってできない。来月にしてほしいとのことであった。
地図
より大きな地図で 沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」 を表示