沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第1講 古渡七塚めぐり 第3回「金塚」

金塚

闇之森八幡社向かいの伊勢山中学校西隣にひっそりとたたずむ榎白龍明神

闇之森八幡社向かいの伊勢山中学校西隣にひっそりとたたずむ榎白龍明神

「金は天下の回り持ち」という格言がある。金銭は一人の所にとどまってはいない。貧しいものも、いつか金銭に恵まれるという意だが、私のような年中貧乏なものはその実感を味わったことは一度もない。とかく「金が敵」の世の中である。 金を手に入れたい、金に恵まれたいという願望は、古今を通じて変わりがないようである。

昔、古渡の地に、そこに念ずれば金銭が恵まれるという金塚があった。 『俳諧古渡集』は金塚のことを、次のように記している。

今渡辺氏一秋雅子控畑の内に此名ありと云り。
七曲に塚をまとふや金銀華   冬央

冬央は『俳諧古渡集』の著者である。享保十八年(一七三三)、古渡の旧蹟を、俳諧に詠みこみ紹介したのが『俳諧古渡集』である。「七曲に塚をまとふや金銀華」の句意は、竹取物語に出てくる蓬莱の玉の枝のように、金や銀の華で幾枝にも飾られているすばらしい塚よという意であろうか。裏の意として、この塚に詣でれば、金や銀にいつも恵まれるという意を含んでいるのだろう。

冬央が、この句を詠んでから百十七年たった嘉永二年(一八四九)、金塚をめぐって時ならぬ騒ぎが起こった。 奥村徳義は『松濤棹筆』に、その顛末を、次のように記している。

古渡り新町西うらに、古き榎の木一株生たる根に小き五倫塔石を孕みたるを人見付出し、是古への金銀塚なるらんと云ままに、例の珍事をほこり立、浮気の習ひ、早小祠を立、絵馬舎などをも前に立て、苦もなく一小祠を仕立、燈明などをも立に、此事世間遠近流布して願懸するやら見物がてらにや、参詣日々に其砌は祠前に人影不断。依て菓子売茶婆など床台出して客を呼けり。かくする事一春秋も過たりしが、いつしか音信るる人跡も絶果て、是ぞ金塚新祠かとて尋る人だにもなし。されば実なき事は醒る事如此。件の石塔はいかさま古物也、思ふに慶長以前は今のこま頭の石塔はなきにや。多く以五りん塔石なり。爰にも誰人か葬りし跡のしるしの傍、榎生じて件の塔を囲むものならんかし。一年本町大手の石垣崩れし時、中より小き五りん多出しと御作事方奉行岩田運九郎の談。又天保年に御本丸搦手御門石垣築直しの時も出たり。是にて昔時のさま思ひはかりつべし。其時は徳義正しく視し事なり。

榎白龍明神

榎白龍明神

古い榎の木の根に小さな五輪塔が包まれているのを、ある人が見つけた。これが、あの『俳諧古渡集』に詠まれている金塚だというので、人々が引きもきらさず押し寄せた。塚の前には、小さな祠が立てられた。参拝客を相手とする菓子売が出たり、茶店などができた。しかし、一年もするうちに訪れる人は、とだえてしまった。

金塚だと人々が騒いでいるのは、冬央の詠んだ金塚ではなく、慶長以前の古い五輪塔であった。誰か人を葬った所に、印のために植えた榎が大きくなり、その五輪塔を囲んでしまったのだった。 「実なき事は醒る事如此」の一節に、奥村得義の、この騒動に対する感慨がよく表れている。

『闇之森八幡社由緒書』には、金塚の所在地を、闇之森八幡社の境外社である榎白龍明神の地であるとしている。榎白龍明神は、正木町と古渡町とにそれぞれある。由緒書には、金塚の由来の一説として、次の伝説をあげている。

昔時元興寺の堂宇に、金銀の鶏を上置きし照輝き漁獵の妨に成ける故、火を懸焼亡し、其鶏を埋し所と見えたり。 この文は、『古渡誌』の付箋に書かれている文で、金塚は、元興寺の屋根の上に掲げられていた金銀の鶏を埋めた所であるという説だ。

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