沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第15講 福徳・中切・成願寺 第9回「ドンド焼き──六所神社」

ドンド焼き──六所神社

六所神社

六所神社

火の粉が、空に舞い上がる。紅蓮の炎の中から、神棚に正月中飾ってあった注連飾りやお札が灰となって飛び散ってゆく。

他の地では一月十四日か十五日に行われる左義長が、成願寺の六所神社では十日に行われる。四本の青竹で囲まれた中にうず高く積まれた薪のまわりに多勢の人々が集まってくる。

宮司の祝詞が終わり、火がつけられると薪はまたたく間に燃えあがってゆく。

「火を燃やすのには問題はあるが、今日だけは特別の日だ。どの家でも飾りやお札を始末することができないからお宮さんに持ってくるんだ」。氏子の人は、そんなことを言いながら多量に積まれた飾りを薪の中に入れてゆく。堂々と火を燃やすことができるのは、左義長の今日だけである。燃えあがる火のまわりで、誰もが手をかざして、次つぎにと燃えあがってゆく正月の飾りを見ている。

六所神社の東側も、西側も団地だ。団地の人々が、小さな子供の手をひきながら飾りを持って集まってくる。左義長の日に、書き初めの字を燃やす。その紙が空高く舞いあがると字が上達すると言われたものだ。炎の中に入れた習字紙が、どの程度、舞いあがってゆくのか固唾を呑んで昔の子どもは見ていたものだ。習字を持ってくる子どもはいないかと見ていたが、ひとりもいなかった。

餅を持って来て、左義長の残り火の中に入れて焼く。その餅を食べると無病息災で一年過ごせると餅を焼いたものだ。左義長で竹がポンポンはぜると景気がよいというので、青竹も入れて焼いたものだ。左義長にまつわる俗信は数多くある。

左義長の祭場の中心に、氏神に建てた門松を中心に置くところもある。シンダケ(芯竹)といった。また最初に火を付けるとき、マメギとワラを使うところもある。マメギも青竹のように、よくはぜて景気がよいからだろうか。あるいは、ポンポンと勢いよくはぜて邪気を払うという意味があるだろうか。左義長のたく火を爆竹とよぶところからも邪気を払う意があるだろう。

また、左義長では絶対に秋葉神社のお札だけは燃やさなかった。三節竹をいぶして、家に持ち帰り、屋根にあげて火難除けにする地方もある。左義長をドンド焼き、ドンドコ焼きとも呼ぶように、火は威勢よくドンドン燃えあがってゆく。

六所神社の文字が入った石柱の裏側は「明治三十七八年日露戦争従軍記念碑」と刻まれている

六所神社の文字が入った石柱の裏側は「明治三十七八年日露戦争従軍記念碑」と刻まれている

六所神社の文字が入った石柱表側

六所神社の文字が入った石柱表側

左義長の始まる前、しばらく宮司さんと話した。

「氏子は二十軒です。しかし、氏子の人たちよりも私が一番古くからこの地にいます。昭和七年の矢田川の付けかえ工事も、失業対策事業として始められたものです。その頃のことを知っている人は、ひとりもいませんね。矢田川の堤防の上にあった祠を、この神社に合祀しました」

六所神社の祭神はイザナギ・イザナミ・スサノオ・ツキヨミ・アマテラス・エビスの六神である。成願寺村の村社で、勧請の年代ははっきりしていない。元禄二年(一六八九)に社殿を再興したという。六所神社は昭和二十年四月の空襲で全焼した。今、神社に残っている戦前からのものは、すべて石造物だ。

もっとも古いものは、東の鳥居の側にある燈明台で、宝暦十二年(一七六二)に牛頭天王社に奉納されたものだ。牛頭天王社は、津島神社のことだ。天王社が、この六所神社に合祀されたことがわかる。燈明台は、境内には明治時代のもの、大正時代のもの、昭和の戦前のものと三代にわたり、それぞれある。

表側に六所神社と社名が彫られ、裏側には、明治三十七・三十八年の日露戦争従軍記念碑と書かれた碑がある。碑の左側には、この村から従軍した六名の名前が刻まれている。従軍記念碑を建立するにあたり、予算の関係で、六所神社の石碑に刻んだのであろうか。それにしても従軍記念碑の文字を裏側にするのも異なものだ。それとも従軍記念碑に、戦後、六所神社と刻んだのであろうか。

百度石が、小さく鳥居の側に建っている。鳥が、けたたましく鳴きながら神社に集まってくる。境内ではドンド焼きが終わり、多勢の人が、出されたぜんざいに舌づつみをうっていた。

六所神社境内

六所神社境内

地図


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