沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第14講 大我麻・喜惣治 第3回「水神の祟り──大我麻神社」

水神の祟り──大我麻神社

大我麻神社

大我麻神社

古老が往来をみつめながら、ぽつりとつぶやいた。

「大蒲がこんなに人家が建って発展するとは、夢にも思っていなかった。」

喫茶店の前は国道四十一号線である。ひっきりなしに車が通ってゆく。高架の上からも車の騒音が聞こえてくる。

「このあたりは新沼というところだ。その隣の部落が古沼だ。古くから沼があった地、新しく沼ができた地という意味で、そのように呼ばれていたのだろう。」

古老は往時をなつかしむように語りつづける。蒲が生い茂っている沼地に、人家が建ち並ぶようになるとは、誰が予想できたであろう。ましてや、高速道路が町の中を縦横に通るようになるとは、想像もできなかったことに違いない。

「東邦ガスの楠営業所のあたりに沼があった。そこでは、水が湧き出ていて、きれいなものだった。蓮が沼に植えてあった。大蒲というが、わしたちが沼で遊んでいた頃は、蒲ではなくて蓮沼になっていた」

何年ぐらい前の話かと尋ねると、今から五十年も前のことだという。何をして遊んだかと尋ねると、八目鰻がよく捕れたので、鰻を捕っていたということであった。

「沼の中には水神様が祀ってあった。大蒲の大地主に三輪惣右衛門という人がいた。東区の神楽町に屋敷があって、そこに小作人たちが大八車に米を積んで運んだものだ。三俵も積んだ大八車を泣く泣く押して行くので、年貢道と呼んだものだ。大蒲沼を埋立て、水田にして、小作人も使って、大量の収穫をあげていた。三輪家の当主は代々若死をする。これは、沼を埋めたてたので水神様が怒ったのだ。水神の祟りであると沼の中に水神を祀ったのだ。」

その水神社は、現在は大我麻神社の境内に合祀されているという。古老と連れだって大我麻神社に出かけた。大我麻神社の祭神は天照大神である。大蒲新田と喜惣治新田に分離した時に、大蒲新田の氏神として建立された神社だ。建立したのは、文政十年(一八一三)豊場から移住してきた佐々木磯吉である。彼は沼地や砂地を開拓して、大蒲の新田開発をした先駆者である。磯吉は移住と共に豊場の伊勢山から天照大神を迎えて、祀ったのである。

大我麻神社 境内

大我麻神社 境内

境内に入ってゆく。鳥居の傍らに椎の大木がそびえている。木の下には小さな実が幾つも落ちている。「そこにあるのが三輪惣右衛門の仁沢碑だ」古老に言われ、見てみると三輪家仁沢碑と書かれた大きな石碑が建っている。裏面にまわると次のように書かれていた。

昭和二十年六月九日三輪惣右衛門氏其所有地四十八町二畝二十四歩ノ耕作者大蒲区民四十四戸ニ譲与セラル、区民三輪氏ノ深仁厚沢ヲ徳トシ之ヲ後世ニ伝ヘンガタメ此ノ碑ヲ建ツ

碑が建てられたのは昭和二十一年の八月十五日である。農地解放が行なわれる前、三輪惣右衛門は、低価格で小作人に農地を譲与した。その仁徳をたたえるために建立された碑である。

三輪惣右衛門は明治十二年、中区の神楽町に生れた。明治三十年、名古屋市立商業学校を卒業、家業の酒造業を手伝う。日露戦争が勃発すると共に従軍した。明治三十八年、父親が死亡、家業を受け継いだ。昭和二十一年、名古屋の家を引き払い大蒲新田に移住してきた大地主である。

仁沢碑のかたわらに日露戦争と日清戦争の従軍記念碑が建っている。大正四年の三月に建立されたものだ。拝殿と社務所の間に大きな松の木がそびえている。

社務所の裏に、平成五年に再建された大蒲新田開発記念碑が建っている。正面には中央に杉山惣右衛門、右側に平右衛門、左側に磯吉と書かれている。 中央の惣右衛門は三輪惣右衛門のこと。杉山は酒造業を行なっていた頃の屋号である。磯吉は、豊場から移住し、大蒲新田の開発に尽力した佐々木磯吉。佐々木磯吉の没年は嘉永四年九月二日である。磯吉の没後まもなく、再建前の碑は建てられたのであろう。右側には吉蔵、吉右衛門、左側には治平、九兵衛、甚蔵と記されている。

「沼を埋めたて、砂地を田圃に変える労働は大変なことだったろう。三輪惣右衛門と名古屋の宮町の平右衛門が新田開発に必要な経費を負担したのではないか。二人は不在地主で、碑に刻まれている他の人たちが、この地に移住して開拓をしたのだろう」

古老は、開発記念碑を見ながら、説明をしてくれた。

「しかし、この地の変わりようはすさまじい。如意や味鋺のように古くから開けた土地ではない。文政年間から開けた新田だ。新田開発の土地であることを知らない人も多いだろう。」

古老は、大我麻神社の西にある、現在の移住者の住む団地を見ながら言った。

地図


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