沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第4講 名古屋の忠臣蔵 第1回「仮名手本忠臣蔵」

仮名手本忠臣蔵

赤穂浪士の討ち入りが圧倒的な人気で受け入れられたのは、竹田出雲、三好松洛、並木千柳によって作られた浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』が寛延元年(一七四八)竹本座で上演されてからである。
『天保会記』の中に、忠臣蔵について論じた文がある。

四十七士の事を作りし院本の外題を仮名手本忠臣蔵と近松門左衛門が名づけたり。
其主意は、
   いろはにほへと   ちりぬるをわが
   よたれそつねな   らむうゐのおく
   やまけふこえて   あさきゆめみし
   ゑひもせす
この下の字を、右より左へ横に、よむ時は、
   とがなくてしす
といふ事也。四十七士は義死なれば、とがなくて死すといふべし。元来いろはは、弘法大師の四句の文の意をふくみて、いろはにほへどちりぬるをわがよたれそつねならむうゐのおくやまけふこえてあさきゆめみしゑひもせず、と述られし也。児童の手本には、七字六行と終り五字を一行にきりたる也。このかな手本にあらざれば、とがなくて死すとはよみがたし。故にかな手本とことわりたり。さて忠臣は内蔵助といふ事にて、忠臣蔵といひたり。誠に此四十七士のとがなくて死する事は、門左衛門が発明はいふもさら也。千歳の古よりかねてこの事の前表ありしかとおもはるる斗也。又大石内蔵助を転じて大星由良之助とかへたり。大星は神軍の極秘、由良は十種神宝の祈祷の詞也。内蔵助が復讐の始末、かの神軍と十種とにかなへり。門左衛門はこれらの事までも通達したりと覚ゆ。普通の人物ならざりしが、院本の作者に世をのがれたるならんとおもはる。

近松門左衛門を絶賛し、忠臣蔵を解説した文である。「とが」とは、罪によって科せられる罰を意味するが、四十七士は義士であるので、罪がなくても死したとしている。 『天保会記』で深田正詔は、近松門左衛門が『仮名手本忠臣蔵』を書いたと記しているが、近松が赤穂事件を浄瑠璃本にしたのは『碁盤太平記』である。

近松の逸話が『天保会記』の中に紹介されている。 門左衛門の兄は医書の著述を数多く残している。ある日、門左衛門に「お前の才能で、浄瑠璃本の作者をしているのは情ないことだ」と注意した。それに対して門左衛門は「私はあなたに意見をしたい。私は戯作者という賎しい仕事をしているが、私の書くことは取るにたらないことと人々が思っているので、世の中の害にはならない。兄君の著述は人命にかかわっている。もし間違って伝えたならば世の中の害になるだろう。だから医書の著述は止めてほしい」の言ったので、兄は一言も返す言葉がなかったという。

忠臣蔵の人気が高まるにつれ、義士の遺品が渇仰された。大石内蔵助の真跡などは競って求められた。『趨庭雑話』の中に、次のような話が紹介されている。

山澄風山、或時、玉置市正へ人して申されけるは、珍敷人を御ひき合はせ申すべし、御出給はれよ。存ずる旨も侍れば、上下を御着用あるべしと也。市正、かたじけなし、と返答にて、即刻来らる。市正奥へ通られければ、主人も上下にて出られ、互の挨拶終り、主人うやうやしく一軸を取出し、珍敷人とは是にてさむらふ、とて自分床に懸けられしを見れば、大石良雄が真蹟の手簡也。市正、床前に至り両手をつき、感嘆浅からず。落涙数行に及び、かかる忠臣の真蹟御手に入れ給ふ事、偏に御心懸抜群ゆへ、と打返し打返し称美申されける。

礼服の裃を着て、両手をついて、涙を流して大石の真筆を見る。
大石内蔵助が神格化されていく様子がよくわかる記述だ。