沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第13講 如意界隈 第6回「冬の蝶──堀田天神」

冬の蝶──堀田天神

堀田天神

堀田天神

コスモスの花が風にゆれている。菊の花も蕾を開いたばかりだ。鶏頭のまっ赤な花が、今を盛りと咲いている。如意の住宅地の中に、広大な畑が残されている。畑には野菜が片隅に少し植えてあるだけで、残りの土地は花畑となっている。花畑の上を一匹の蝶が舞っている。春の蝶のように、何匹もの蝶が群れて飛んでいるのではない。たった一匹で、残された生命を楽しむかのように、ゆったりとコスモスの花の間を飛んでいる。冬の蝶は孤高だ。周囲に阿(おもね)ることなく、悠々と思うがままに自分の人生を楽しんでいるかのようだ。うららかな小春日和に誘われて、蝶は花畑に飛び出してきたのであろうか。

堀田天神を尋ねて、如意の里を歩いた。『名古屋市楠町誌』(昭和三十二年刊)によると、昭和三十年(一九五五)に堀田天神の祀られている堀田の部落には、八軒の家があり、五十六人の人がくらしていた。おそらく堀田部落の八軒は、農家ばかりであったろう。一面に続く畑の中に、農家が点在していたに違いない。年を追うごとに畑は住宅地へと変貌してゆく。

八軒の家が建っていた昭和三十年から、半世紀になろうとしている、その間の日本社会の変動は著しい。田畑は潰され、山は削られ、そこに住宅が建てられた。如意の里などは、その変動を最も顕著にうけたところだ。住宅地の中に、畑が残っている。畑に咲いているコスモスの花の間を冬の蝶が飛んでいく、この畑と堀田天神だけが、半世紀前から、この地に残っているのかも知れない。

堀田天神

堀田天神

大井神社には山神社、御獄社が合祀されている。山神社は寛永元年(一六二四)に堀田の部落に建てられてものだ。御嶽社は、堀田の竹藪の中に祀ってあったものだ。現在、堀田部落に残っている神社は、天神社だけだ。堀田天神について『名古屋市楠町誌』は、次のように記している。

祭神は菅原道真、もと落合鳥見塚に一祠があったが、大水のため流失し、台石のみ残っていたのを、明治初年堀田屋敷の現地に移したのである。昭和十二年(一九三七)菅原天神を迎えて祀ったものである。この天神は堀田講中の手により毎年正月二十五日に祭事を行っている。

祠がもともとあった地は、狩人が鳥をここから眺めて獲物を探した地──なので、鳥見塚と呼ばれていた。畑の片隅に野菜が植えてある。年老いた婦人が草をむしっていらっしゃる。

「堀田天神は、何軒で世話をしていらっしゃいますか」と畑の中に入って尋ねた。「むかしは二十五軒で講を作って世話をしていました。宅地化がすすんで、百姓をやめて越してゆく人、代がかわって講をやめていく人、いろいろなことがありまして、今は一軒だけで守をしていらっしゃいます。

二十五日には、二十五軒の人が集まって堀田天神にお参りをして、それからお日待をしました」と言われた。お日待とは取り入れや田植えの終わった時に、部落の者が集まって会食や余興をすることだ。もともとは、日の出を前夜から潔斎して寝ずに待って拝む「日待」から転じた行事であろう。濃密な人間関係のうかがえる行事だ。如意の里が新興住宅地帯に変わるとともに、講もなくなり、お日待ちも消えてしまった。

通りすがりの人に、「堀田天神は、どこの方がお守りをしていらっしゃいますか」と尋ねても「私は越してきた人間だからわかりません」と答えられる。「天神様が祀ってあるというので、受験シーズンともなると受験生や家族の方のお参りがあります。合格したといって喜んでお礼にくる人も多いですよ」婦人と別れて、堀田天神にゆく。ここにも、小春日和に誘われ、一匹の蝶が舞っていた。それは、消えてゆく、如意の習俗を惜しんで飛んでいるかのようであった。冬の蝶の余命も後数日しかないであろう。

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