沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第5講 干支の神様 第7回『羊神社』とその界隈「神功皇后の石」

神功皇后の石

別小江神社へとつづく参道

別小江神社へとつづく参道

日本最古の歴史書である『古事記』に載っている二つの伝説の地が堀川端にあります。倭建命の白鳥伝説の地は熱田区に、神功皇后の新羅遠征の伝説の地は北区にあります。神功皇后の伝説が残っているのは、北区安井町の別小江(わけおえ)神社です。神社に伝わっている神功皇后の話は、今から千七百年も昔のことです。

仲哀天皇は筑紫(今の福岡県)の香椎宮で熊曽国(九州南部)を征伐しようと準備をしていらっしゃいました。天皇は琴をかなでていらっしゃいます。建内宿祢が、庭にひざまずき、神のお告げをうかがいました。神功皇后に、神様がのりうつり、神がかりの状態で、皇后はお告げになりました。「西の方に国がある。金銀をはじめとして目が輝くようなさまざまな珍しい宝物がその国にはある。私は、今、その国をお前にさしあげようと思う」天皇は、お告げを信ぜず、「あなたはうそをつく神様だ」と言って、琴をひき続けられました。神様は、たいそう怒って天皇の命を奪ってしまわれました。

人々は驚き、恐れて、神様にささげる品物を国中から集めました。身をきよめて、神様にたずねると「すべて、この国は、お前のお腹に宿っている子どもが統治なさる国だ」というお告げがありました。「生まれくる子どもは男の子ですか、女の子ですか」とたずねると「男の子である」と答えられました。「お前たちが、海の向こうの国が欲しいと思うなら、すべての神に御幣をささげ、わたしの魂を船の上に祭り、桧の灰を瓢箪に入れ、また、箸、ひうで(柏の葉でつくった食器)を多くつくり、みな海の上に投げて渡っていくがよい」とおっしゃいました。神功皇后は軍隊をととのえ船を浮かべて、海に乗り出すと、海中の魚は船を背負って海を渡りました。追い風をうけた船は一気に進み、新羅(昔の朝鮮の国名)につきました。新羅の国王は、恐れ、つつしんで天皇に仕えることを誓いました。

  • 安産の神様として崇拝をあつめている別小江神社

    安産の神様として崇拝をあつめている別小江神社

  • 別小江神社の解説板

    別小江神社の解説板

神功皇后は、新羅の国に向かわれる時、ちょうど御産で臨月にあたっていました。皇后は尾張国造稲植(おわりのくにのみやつこいなだね)をお呼びになられ、二つの石を拾ってくるように命じられました。皇后は一つの石を裳(女子が腰にまとった衣)に巻き、まじないをして出産の時期をのばされました。
新羅を征伐し、日本に帰られてから、皇后は誉田別尊(ほむたわけのみこと)をお産みになられました。この方は後の第一五代応神天皇です。この時、稲植は産屋(お産をする小屋)でお仕えしていました。稲植は神胞(帝をつつんでいた膜)をいただいて尾張の国の安井の里に帰りました(言い伝えでは、裳の中に入れられなかった石もいただいて帰り、御神体とした)。これを千本杉という所に奉安しました。天智天皇が即位されてから七年目(六六七)に神功皇后と誉田田別尊を祭る延奈八幡社(えなはちまんしゃ)を建てました。

今、延喜八幡社と呼んでいるのは、延奈八幡社というのを言い換えたものです。神功皇后の伝統にちなみ別小江神社(延喜八幡社)は、安産の神様として多くの人々の崇拝をあつめています。安井の里で出来たわらを、お産の時、下に敷けば安産まちがいなしといわれています。

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