柿木金助 牢を破る
江戸時代の引き回しルート清須越によって、多くの神社が名古屋に移ってきた。そのうちの一つ、清須の朝日町から移ってきたのが神明社だ。この神社の透垣は広小路通りに面して建っている。通りを隔てて、住吉町筋と本町通りとの間に、江戸時代には牢獄があった。罪人は、広小路を引き回されて、処刑される。あるいは広小路にさらされる。罪人に、神殿を見せるのは、気の毒だというので、透垣が建てられたのは文化六年(一八〇九)九月上旬のことだ。『金明録』は、次のように記している。
広小路、神明の社前に、透垣建立す。是は神社にて各別の事故、由緒なくては不相済。然る所、此社は牢獄近く、罪人の通行繁くして、不浄の者、社を見込、甚いたましとの義、申立にて、願相済しとかや。今の神主の大功と言べし。
いつの時代においても、罪を犯す人は多い。『金明録』の天明四年(一七八四)二月下旬の記述は、次の通りだ。
裏町辺、浮女不残、牢へ入る。大勢のよし。編笠を着せ、珠数つなぎにして引、広小路に見物多し。
売春婦を残らず捕えて、広小路を引きまわす。多勢の見物人が広小路に押し寄せた。しかし、人情深い役人がいて、罪を許され、金銭まで恵まれた売春婦もいた。
百花入牢御免の時、壱人に南鐐一片戴かせ、此後、売女の事、御停止。但し、此一婦は、母養育の為、此卑業をなす旨を言、此もの孝心なりとて、役人、能様に取扱ひ有之由。
母親を養うために売春婦になった女をあわれみ、親孝行のために罪を許される。ちょっといい話だ。
文化二年(一八〇五)十二月二十五日は、処刑の記述が載っている。
廿五日、火あぶりの御仕置者弐人有。是は去冬、法花寺町本成寺を焼し男也。東在の者にて年は廿五才、小男美男也。住持・老母も伯父・伯母にて有し由。前三日、広小路にて、さらされ、見物多し。又壱人は、牧野村の者にて、主の家に火を付し由。其外に、討首・獄門も有。
二人の男が火あぶりの処刑をうける。火付けをした男が、火あぶりの処刑をうけるのも皮肉な話だ。処刑は南北の牢の真中で行なわれた。南の方、東矢来寄にある牢は切支丹牢であった。北の方、東矢来寄には、大牢と小牢と二つに仕切った牢があった。北の方、西矢来寄にあるのは女牢で、六つに仕切ってあった。
この牢獄から破牢することに成功した者がいた。天下の大盗人とうたわれた柿木金助だ。
金助は周到な準備をして、宝暦十二年(一七六二)九月二十八日、破牢に成功をした。手下六人と力をあわせ、穴を掘り、牢を抜け出て、激しい雨風の中を夜陰に乗じ、高塀を乗りこえて逃げ去っていった。