饅頭のごとく円満に、うどんのごとく末長く
大正二年五月五日、改築された納屋橋の渡り初めが行なわれた。竣工式を一目でも見ようと納屋橋におしかけた人々は六万人をこしたという。屋根の上から式典を見つめる人、納屋橋の川の下には幾艘も伝馬船が浮かんでいる。伝馬船の上も、式典を見つめる人々でいっぱいだ。警備にあたった警官は三百人。招待された来賓は三百人であった。
橋の西から東に一行は渡ってゆく。先頭には、いとう呉服店(現在の松坂屋)の音楽隊が、賑やかに演奏をかなでながら歩いてゆく。シルクハットに礼服姿の松井知事が先導をしてゆく。三世代の夫婦二組がつづく。
三世代の一番年下の夫婦は、夫が羽織袴、妻は花嫁姿、父は刀に羽織、その妻は打掛に帯を前結び、祖父はえぼし、ひたたれ、その妻はかつぎをかぶるといういでたちであった。
二組の夫婦は、「納屋橋饅頭」と「長命うどん」の夫婦であった。
創業地に建っていた納屋橋饅頭本店のビルは現在解体され、本店はすぐそばの柳橋交差点北東角に移転している(写真は柳橋に移転した本店)納屋橋饅頭の初代、三輪伊三郎は、三重県長島町出身で米運搬の船頭をしていた。堀川をさかのぼり、納屋橋に出入りをしているうちに、この地で何か商売をして、一旗揚げようと考えた。明治二十九年から酒かすまんじゅうを作り、それを大八車で押して行商をした。客足は、いっこうに伸びない。納屋橋の改築工事が始まった明治四十四年には店をたたんで大須に引っ越しをしてゆこうと考えていた。
人生、何が幸運となるかわからない。渡り初めがあって、納屋橋は名古屋の新名所となった。納屋橋饅頭の名前は、広く人々の知るところとなり、店先には買い求める人が押し寄せてきた。
チャンスはどこに転がっているかわからない。店をたたもうとまで考えていたが、大正二年、五月五日を契機として饅頭の売り上げは日に日に増えていった。
納屋橋饅頭は一躍、名古屋の新しい名産品となった。
渡り初めに参加した納屋橋饅頭の初代、三輪伊三郎は、当時四十三歳であった。
長命うどん 本店(名古屋市中村区下中村町1-3)長命うどんの当主は神野弁之助で、当時、四十九歳であった。納屋橋の西側で「三和弁」という屋号で商売をしていて、たいそう繁盛していた。
渡り初めの時に知りあった当時の名古屋市長、坂本釤(さん)之(の)助(すけ)が、長寿の神野家の家系をほめたたえ、「長命うどん」と店の名前を変えたらと提案した。
長命うどんの方も、渡り初めがあって大変な評判となり、夜中の一時まで客がとぎれることがなかったという。
市長の坂本釤之助は、尾張鳴尾の永井家十一代永井匡威(ただたけ)の三男。長兄は永井荷風の父親、永井禾(か)原(げん)(久一郎)である。小説家であり、詩人であった高見順は釤之助の子供である。
渡り初めに参加した納屋橋饅頭と長命うどんの三夫婦を見て、当時の人は「家庭が饅頭のごとく円満に、うどんのように末長く」と言ったという。