広小路の映画館
現在の朝日会館名宝会館と道を隔てて東側に建っているのが朝日新聞のある朝日会館だ。朝日会館は石川純一郎の設計により、昭和十年に竣工した。硝子張りの塔を建物の上に載せたモダンな建物が、広小路を通る人々を驚かせた。朝日会館も幸いにして、戦火を免れることができた。この会館の三階と四階は映画館であった。戦後すぐ朝日会館は米軍に接収され、日本人の入ることのできない会館となってしまった。米軍とその家族たちが劇場でアメリカから入る新作映画を見て楽しんでいた。
昭和二十七年、米軍の接収は解除され、一般の映画館となった。数多くの西洋名画が、この劇場で上映された。
“第三の男”、“シェーン”、“終着駅”、“麗しのサブリナ”、“裏窓”、“エデンの東”、“戦争と平和”、“ティファニーで朝食を”など数えあげたら枚挙にいとまがないほどだ。題名を聞いただけで、その場面を、今もあざやかに思い出す人もいるだろう。
昭和三十五年一月一日からは松竹系の映画館となり、三十五年には木下恵介監督の“笛吹川”、“三十七年には吉田喜重監督の“秋津温泉”、小津安二郎の“秋刀魚の味”などを上映した。昭和四十七年に、この映画館も戦前からの長い歴史の幕を閉じた。
朝日会館から広小路を東に歩き、仲ノ町を南におれたところの東側にあったのがミリオン座だ。ミリオン座の開館は、昭和二十五年である。開館の封切映画は“ジョルスン物語”、そして翌年には“わが谷は緑なりき”、“バンビ”、“アニーよ銃をとれ”等が上映された。さらに、その翌年の二十七年には“ピノキオ”、“誰が為に鐘は鳴る”等を上映。現在も最も人気がある“ローマの休日”が上映されたのは、昭和二十九年のことだ。
西洋の名作映画のことごとくが、この映画館で上映されたといってもよい。ミリオン座が閉館したのは昭和五十八年の九月二日であった。最後の封切映画は、アニメの“はだしのゲン”であった。
ミリオン座の東の道、御園町の通りを南に数歩の所にあった映画館がCNC劇場だ。昭和二十三年三月二十一日にメリー・マーティン主演の“オペレッタの王様”を開館記念として上映した。昭和二十九年からは新東宝の封切館となった。
丸栄百貨店と道をはさみ西側にあった映画館が松竹映画館だ。この映画館の開館は昭和二十一年十月三十日だ。開館記念映画は衣笠貞之助監督、長谷川一夫主演の“鯉名の銀平”だ。
昭和二十四年、松竹映画館は名前がステート座と変わり、アメリカ映画のロードショー劇場になった。開館封切映画は“楽聖ショパン”であった。“風と共に去りぬ”がこの映画館で上映されたのは、昭和二十七年の九月十八日からだ。
昭和二十九年には、ステート座からまたもとの名古屋松竹映画劇場に名前がもどった。
ステート座の思い出を伊藤紫英は『名古屋映画史』の中に、次のように記している。
ステート座は、前庭をひろくのこして池をつくりコイを泳がせ、水車をまわした。ひところは南端に喫茶室もあった。
松竹映画劇場が栄町から姿を消したのは、昭和四十五年二月であった。
昭和二十七年七月十日、丸栄百貨店の東北角を南に入り、松竹劇場と丸栄百貨店をはさみ、向かいあうような位置に、名古屋日活劇場が開場した。最初は洋画を上映していたが、昭和二十九年からは日活が自主製作する映画を上映した。
今は観覧車のまわっている場所に、名古屋東映劇場、東映パレス、名古屋東映小劇場の三つの映画館があった。東映劇場は、片岡千恵蔵、市川右太衛門、中村錦之助などの東映映画全盛時代の昭和三十年七月の開場だ。開場記念には、千恵蔵、錦之助、千代之介等が舞台挨拶をした。
名古屋東映の西側、現在建っている国際ホテルの西側部分を占めて建っていたのがピカデリー劇場だ。この映画館の開場は昭和二十五年一月一日、英国映画のロードショー劇場として出発した。
広小路通りに多くの映画館があり、いつも超満員の客を集めていた時代、それは日本が戦後の痛手から立直り、経済が坂道を上ってゆくように高度成長時代に入ってゆく頃であった。
活気があり、広小路を歩く人々も希望に満ちていた時代であった。