闇市
戦後しばらくの間、白衣をまといアコーディオンをひく、片手や片足の傷痍軍人の姿をよく見かけた。納屋橋の上でも、道行く人に金銭の施しを乞う姿がみられた。戦争の傷跡は一面の焼野原となった街の光景だけでなく、人間の内面にも深い傷を落としていた。
誰もが食物に飢え、誰もがひもじさに耐えていた。しかし、うちひしがれているわけにはいかない。人々は住む場所を求め、食べる物を求めて、たくましく躍動を始めた。
焼跡にバラック建ての小屋を建てる。空地では筵を敷き、その上に品物を置いて商売を始める。大道市場が至る所にできた。栄、名古屋駅前と焼跡に不法な建物を建て、次々と闇市が開かれた。
空いているのは腹と米びつ、空いていないのは乗りものと住宅
昭和20年頃栄町のバラック(名古屋市広報課提供)昭和二十一年の流行語だ。この年の四月の家計調査によれば、家計平均千四百円近くのうち七〇%を飲食費が占めていた。物価を取り締まるために公定価格が決められていた。精米(十キロ)三五七円、甘薯(一貫目)二七円、コッペパン(四五匁)四円六四銭、にんじん(百匁)五円九〇銭、ワイシャツ(共襟)三二六円などだ。しかし、公定価格では品物は出まわってこなかった。横流しされた品物は、闇市や大道市場で堂々と売られていた。闇市といえば、名古屋駅の駅裏がよく知られている。終戦直後は駅裏だけでなく広小路にも闇市があり、大道市場があった。『中村区誌』は次のように当時の状況を記している。
戦後いちはやく復興し始めたのは、陸の玄関名古屋駅前であった。焼跡にはバラックやマーケットが建ち始め、大がかりな闇市、納屋橋河畔の大道市、笹島東北角にずらりと並んだアロハ・アーケードなど現在の姿からは想像もつかない状景であった。
終戦から二年ほどの間、笹島の角から広小路沿いに進駐軍のカマボコ兵舎の病院が建っていた。カマボコ兵舎の跡に建てられたアーケードなので、アロハ・アーケードと呼ばれるようになった。
戦後の混乱のなかで、広小路にいちはやく目をつけた人物がある。すでに戦前から大須で太陽館、大勝館、帝国館、帝国座の四つの映画館を経営していた古川為三郎だ。
戦前、為三郎が県下で経営した映画館は、大須の四館を含めて十館あった。そのうち浄心の弁天座一館だけを残し、すべて戦争で焼失してしまった。
大須の次は広小路だ。焼け跡の中で為三郎は、広小路の土地を物色し始めた。その土地に映画館を建て、食堂を経営するためだ。
昭和二十年十二月、広小路通りに二百四十坪の土地を二十四万円で買った。坪あたりの単価は千円だ。ヤミ市の定食が五十円、映画の封切館の値段が五円の時代だ。
この土地に為三郎は、昭和二十二年資生堂パーラー広小路店を開く。さらにその翌年には隣接の土地二百八十坪を買い上げる。三年前、坪千円だった土地は七万五千円に値上がりしていた。七十五倍も三年間で広小路の土地は値上がりしたことになる。新しく購入した土地には、映画館ミリオン座を建てた。
為三郎は、名古屋駅前にも映画館を建て始める。昭和二十一年にはメトロ劇場、昭和三十五年には毎日ホール大劇場、毎日地下劇場を開設する。
焼け跡に立ち、戦後は必ず映画の時代がくると予想した通り、どの映画館も長蛇の列ができた。