駐車場になった徴兵館ビル
名古屋で、もっとも人通りが多く、賑やかな中心地はどこかと尋ねられたら、どの地点をあげるであろうか。高層ビルが立ち並ぶ名古屋駅前をあげる人もいるであろう。あるいは、栄町の三越前をあげる人がいるかも知れない。戦前はまぎれもなく、名古屋の中心地は広小路通りと本町通りが交差する地点であった。しかし、現在はこの地にある名古屋の中心地点を示す道路元標が、放置自転車の中に埋もれているように、あまりにも変わり果ててしまった。
広小路本町交差点。正面の駐車場にかつて日本徴兵館があった。名古屋を代表するビルが、広小路本町通り角に建っていた。昭和十四年に建てられた日本徴兵保険名古屋支部のビル「名古屋日本徴兵館」だ。横河工務所の設計による、このビルは戦前の名古屋に建てられた最後の高層建築である。電動シャッター、冷暖房設備などが完備した、当時としては最高水準のビルであった。柱と一階の壁は白色、窓パネルは黒色の花崗岩が使われていた。後に、このビルは、大和生命ビルと改称になる。このビルは戦火をまぬがれ、戦後も堂々とした雄姿を広小路に現していた。一時、進駐軍に接収されていた。
平成十七年、戦前の名古屋を代表する、このビルも取り壊されてしまった。そして、現在は駐車場にと姿を変えている。東京で言えば、銀座四丁目の一角が歯ぬきになり、駐車場になっているようなものだ。
江戸時代、この徴兵館ビルの地には、眼鏡店が店を構えていた。現在も錦三丁目で商売を続ける玉水屋眼鏡舗だ。この店の創業は、遠く宝暦元年(一七五〇)にさかのぼる。わが国に眼鏡が入ってきたのは、天文十八年(一五四九)宣教師のザビエルが周防の国主大内義隆に献上したのが始まりであるという。江戸時代の初め、長崎の人、浜田弥兵衛が南蛮国に渡り、眼鏡づくりの術を修得、それを日本に持ち帰り、伝えたのが、わが国の眼鏡造りの始まりだと言われている。現在、使っているような眼鏡を使用するようになったのは、明治の開化期からだ。ウィーンの博覧会に出かけた浅倉亀太郎が、眼鏡を見て、その製法を学び、造るようになったという。
玉水屋の屋号は、創業者の出身地、京都の綴喜郡玉水郷から付けたものである。
創業当時の玉水屋は、袋物類、ギヤマン類を中心として商売を続けていた。袋物とは紙入れ、煙草入れ、蟇口、手提げなどの日用の袋状の入れ物のことだ。ギヤマンと呼ばれた西洋小物も取り入れて商売をしていた。
この店では、古代金革目貫更紗、貴金属の美術装飾品、各型張煙管パイプなどの高級品を扱っていた。
時代の変化とともに、ギヤマン類は眼鏡の販売へと変わってゆく。光学用レンズ、寒暖計工業用メートル、遠近両用レンズ、双眼鏡、望遠鏡などを、いち早く取り扱った。
初めて眼鏡を使用する人に対しては、使用上の注意を書いた「メガネの栞」を贈呈した。新栄一丁目に眼鏡の専属工場を造り、ここで荒工作をし、店で仕上げを行なっていた。
明治三十四年刊行の『大福帳』は、津田庄三郎の玉水屋について「店相応に品物も沢山、近年中々売出れた堅いぞ堅いぞ」と記している。老舗の店らしく手堅い商売だとの評価だ。玉水屋が広小路本町角より、現在の店舗のある錦三丁目に移ったのは大正十四年のことだ。
名古屋の中心地、広小路本町に店を構えることができたのは、老舗の一流店であった。本町通りをはさみ、玉水屋と向かいあって建っていたのは中村呉服店だ。
名古屋商人の誉りをかけて店を構えたこの地は、今、駐車場となっている。広小路通りをはさみ、向かい側には、いかがわしいちらしが貼られた店が入るビルが建っている。広小路も変わったものだ。