尾張藩の米蔵
納屋橋の南、堀川の東岸には尾張藩の「御蔵」があった。江戸時代の租税は、主に米で徴収され、尾張藩の各地から集められた米は堀川をさかのぼり、ここ納屋橋のたもとに有った藩の御蔵に収められた。御蔵は税金を保管しておく大金庫のようなもの……尾張藩の財政基盤を支えており、堀川沿川では、白鳥にあった軍船等を収納しておく「御船蔵」、今の州崎橋周辺にあった水軍関係者の「御船奉行屋敷」「水主屋敷」といった軍事的な施設とともに、藩の最も重要な施設の一つである。
廣井官倉に貢米を納る図 尾張名所図会(イメージ着色)御蔵のかつての姿は『尾張名所図会』に載せられている「廣井官倉に貢米を納る図」から窺うことができる。
川沿いに多くの御蔵が建ち並び、堀川岸はすべて船着場になっていた。たくさんの船が堀川に浮かび、船から六〇キログラムもある米俵を担いで陸揚げしている。岸辺の広場には陸揚げされた貢米(税金として納められた米)が山積みにされ、検査の武士や検査を終えた米を御蔵に運んでいる人々がいる。検査不合格になったのか米を俵に詰め直している。御蔵の塀際にはたくさんの大八車が置いてある。何棟もの大きな蔵の屋根では、こぼれた米にありつこうとおびただしい数の鳥が隙を狙っている。絵にはかつての尾張藩の大金庫「御蔵」の活気あふれる風景が生き生きと描かれている。
ここに御蔵が造られたのは、清洲から名古屋へ遷府の時。この場所が選ばれたのは、大量輸送ができる堀川の舟運の便があるからだ。
清洲にはかつて福島正則が城主だった時に建てた、長さ三〇間(約五五m)もの大きな蔵三棟があった。この蔵を名古屋のこの地へ移築し、その他にも多くの蔵を建て御蔵を造った。清洲に在った頃は三棟であることから「三つ蔵」と呼ばれ、移築後は多数の蔵があったものの、旧名を引き継いで通称「三蔵(みつくら)」と呼ばれていた。
御蔵は南北が約一四四間一尺(約二六二m)、東西が北側(広小路側)は四〇間(約七三m)南側は六二間(約一一三m)という広大な敷地に建てられていた。高塀がめぐらされた構内にある蔵の数は二六棟で八三の出入口があり、七万三千石の米を保管できた。三か所の井戸と水溜(防火用水)が設けられ、元和五年(一六一九)からは御蔵奉行がおかれ、蔵の管理をしていた。
堀川岸の納屋橋寄りは「諸事揚場」になっており一般住民も利用できる場所、その南は木戸で仕切られ「御年貢揚場」……御蔵専用の広い船着場になっており、ここに面した塀には大量に搬入ができるよう五か所の門が設けられていた。
毎年九月二八日(旧暦)が年貢米を初めて搬入する日。この日を「御吉例」と藩では呼んでいたそうである。
尾張藩六九万石(公称、実質は百万石)の財政を支えた御蔵は、大藩にふさわしい大規模なものであった。
永年にわたり尾張藩の財政を支えた御蔵も、明治四年 (一八七一)には廃藩置県が、六年には地租改正が行われ、米による物納から金納制に変わり御蔵の役割も終わった。
明治六年には、それまで広小路本町の東南角にあった「徒場」(刑務所)がこの地に移され、「懲役場」と名称も変えられた。この懲役場では九年に火災が発生。囚人達も協力して消火活動をしたが、この事による減刑を求めて三〇〇名の囚人が窓を破って県庁(当時は今の中区役所の北東に在った)までデモ行進をした。結局諭されて懲役場に戻ったそうだが、今では考えられないのんびりした時代である。
天王崎橋東交差点、手前に新名古屋ミュージカル劇場その隣がナゴヤインドアテニスクラブその後、明治三九年 (一九〇六)に設立された東海倉庫株式会社が堀川の舟運に便利なこの一万五千坪の土地を買収、翌四〇年五月一六日に二五〇坪の倉庫として開業した。
今では御蔵を偲ばせるものはないが、ナゴヤインドアテニスクラブ、新名古屋ミュージカル劇場などで賑わっており、天王崎橋を東西に通る筋を「三蔵通」、朝日新聞西側の南北の筋を「竪三蔵通」(たてみつくらどおり)と呼び、わずかに通りの名がかつて御蔵のあった事を伝えている。