納屋橋の石柱
栗田末松の墓墓の入り口にある納屋橋(右)と伝馬橋の石柱(左)覚王山日泰寺の墓地の一画に、栗田末松の墓がある。墓は名古屋の街が一望できる小高い丘の上にある。
栗田末松の墓は、林立する日泰寺の墓の中でひときわ異色を放っている。墓地の入口が、納屋橋と伝馬橋の石柱でできているからだ。
石柱は、陽光をあびて、きらきらと輝いている。
木橋時代の納屋橋(明治19年頃)木橋時代の納屋橋、石柱が見える(明治45年)栗田末松は、明治四十三年から始まった納屋橋改築工事を施工した人だ。彼は明治四十五年一月に、納屋橋の改築工事を請負い、二月九日から工事に着手した。
まず橋の周囲に竹矢来(竹を斜めに編んでつくった目の粗い囲い)を造り、橋梁を取りこわした。五月十七日より橋台地の杭打ちを始めた。
六月十一日からは、二箇所の橋台築造箇所に笹枝葺の小屋を造り、電灯をひいた。昼も夜も、晴れている日も、雨の日も工事を続けた。打った杭の数は六百四十本、これを打ち込む分銅重量(おもりの重さ)は、百二十貫(約四五〇キロ)の杭打機二台を用いた。
杭打機を持ち上げる梯子の高さは三十尺(約六メートル六)あった。作業中の排水は石油発動機を用いた。
納屋橋(昭和8年頃)九月二十二日に橋台の積み立てが終わり、鉄材を組み立てる工事にかかった。
大正二年一月十六日には橋の車道、軌道を竣工した。三月二日からは親柱、袖高欄の据付けにかかり、二十日から橋上高欄取り付けに着手し、四月十五日にすべての工事を完了した。
栗田末松が請け負った額は五万六千九百七十二円である。工事全体の総額が十万三千四百五十三円のうち、約半分強の金を使って、彼が工事をしたことになる。
日泰寺にある栗田末松の墓に使われている納屋橋の親柱は、この時の工事によって取り払われたものだ。
精魂をこめて工事をした納屋橋、その親柱に護られて眠る栗田末松の墓は、いつも静謐にみちている。
現在の納屋橋、奥の煉瓦のビルが旧加藤商会ビル納屋橋の中央に張り出したようにバルコニーが突き出ている。バルコニーの真ん中に福島正則の中貫十文字、そして両わきには、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の家紋が鋳抜かれている。そして、その下に小さく「中島鉄工所 鋳造部制作 中島彦作」とレリーフがはめこんである。
中島彦作は明治四十五年着工、大正二年に完成した鉄石混用の納屋橋の高欄および側面装飾、ガス灯の台を製作した人だ。彼の請け負った額は七万六千四円。大正二年一月二十日から工事にかかり二月四日に完成した。
バルコニー脇のレリーフ彼は名古屋のほこりである納屋橋を日本一の美しい橋にしようと採算を度外視し、ガス灯は、スズランの花のようなスズラン灯、手すりの一本、一本にも波をうたせるぜいたくな造りにした。そのあげく、現在の金山駅南口にあった彼の工場は倒産してしまった。
精魂こめた納屋橋の完成は、彦作さんにとってどんなにうれしかったろう。しかし、借金はかさみ、四年後に会社は閉鎖に追い込まれた。一式の設備を東京の工場へ売り払うため、三年間は上京してわが子たちとも別居。名古屋へ戻った後は、元の工場近くの借家暮らしで何することもなくブラブラしていたという。大正十三年、五十六歳で死去した。
と、その後日談を石原俊洋は『堀川物語』で伝えている。
納屋橋は、名古屋に日本一の橋を造ろうとした明治の男の夢を伝える橋である。