広小路と碁盤割
碁盤割(江戸時代後期)名古屋城築城と同時に名古屋城下の建設も始まりました。徳川家康は名古屋城下の中心部を京にならって、碁盤の目のように区画しました。
東西を11ブロック、南北を9ブロックとし、北から一列目と二列目は長方形に、その他は正方形に区画したので「碁盤割」と呼ばれました。その範囲は北の片端筋から南の堀切筋(後の広小路)西は御園町、東は久屋町までありました。碁盤割の中央には道幅5間(約9m)の本町通が南北に走り、名古屋城と熱田を結んでいました。
メインストリートとしての本町通以外の道幅は、三間(5.45m)と二間(3.64m)しかなく広小路の前身の堀切筋の道幅は三間(5.45m)しかありませんでした。ちなみに南北の道路を「道路」と呼び、東西の道路は「筋」と呼ばれていました。
広小路の牢屋
引き回しルート広小路本町北東の庚申堂に向かい合って広小路の牢屋がありました。現在の拘置所のような存在で、判決がおりるまでの容疑者が収容されていました。同時に、牢内で罪人の処刑も行われました。
名古屋城下の処刑場は開府当初、橘町(現在の栄国寺)におかれましたが、本町通の賑わいとともに二代藩主光友によって新川町の土器野に移されました。磔(はりつけ)や火あぶりの刑、晒し首など特に罪の重い犯罪者の処刑が土器野で行われ、その他の処刑は広小路の牢内で行われました。
処刑に先立ち重罪を犯した囚人は裸馬にのせられ市中を引き回されました。広小路の牢屋を出て碁盤割の中をまわる小引き回しと、土器野で処刑される囚人たちの大引き回しがありました。
遊興を楽しむ歓楽街のなかに処刑場があることなど今の感覚では考えれませんが、これも江戸時代の風俗を知るエピソードのひとつかも知れません。