第3回 広小路(江戸時代) - Network2010

第3回 広小路(江戸時代)

万治の大火と広小路の建設

碁盤割(江戸時代後期)碁盤割(江戸時代後期)清州越しから50年を経た万治3年1月14日、碁盤割の北西片端筋から出火した炎は、伊吹おろしにあおられてまたたく間に燃えひろがり、碁盤割の9割を焼き尽くす大火となりました。この「万治の大火」によって二千軒を超える家屋が焼失し、火勢は碁盤割の南端の堀切筋を超え類焼しました。

二代藩主徳川光友は江戸屋敷でこの知らせを受け、すぐさま救援の方策を施しました。また類焼を防ぐため碁盤割南端の堀切筋(久屋町~長者町間)を北に広げ、広小路の建設を行いました。

明治19年(1886)笹島に名古屋駅ができ、やっと広小路は西に延長されました。

広小路と碁盤割

碁盤割(江戸時代後期)碁盤割(江戸時代後期)名古屋城築城と同時に名古屋城下の建設も始まりました。徳川家康は名古屋城下の中心部を京にならって、碁盤の目のように区画しました。

東西を11ブロック、南北を9ブロックとし、北から一列目と二列目は長方形に、その他は正方形に区画したので「碁盤割」と呼ばれました。その範囲は北の片端筋から南の堀切筋(後の広小路)西は御園町、東は久屋町までありました。碁盤割の中央には道幅5間(約9m)の本町通が南北に走り、名古屋城と熱田を結んでいました。
メインストリートとしての本町通以外の道幅は、三間(5.45m)と二間(3.64m)しかなく広小路の前身の堀切筋の道幅は三間(5.45m)しかありませんでした。ちなみに南北の道路を「道路」と呼び、東西の道路は「筋」と呼ばれていました。

広小路と本町通界隈

碁盤割(江戸と現代との対比)碁盤割(江戸と現代との対比)万治の大火によって道幅が約4倍、十五間(約27m)に拡張された広小路は名古屋城下の名所になりました。

本町通と交わる十字路の北東には庚申堂(現在は同地に三菱東京UFJ銀行が建っている)、その筋向かえには柳薬師があり夏の夜には茶屋や見世物、芝居小屋が立ち並び、涼をもとめる人々が夜遅くまで遊興を楽しみました。

広小路夜見世のにぎわい - 尾張名所図会(イメージ着色)広小路夜見世のにぎわい - 尾張名所図会(イメージ着色)

東照宮祭 魚の棚通 -尾張名所図会(イメージ着色)東照宮祭 魚の棚通 -尾張名所図会(イメージ着色)

桜天満宮祭植木市 -尾張名所図会(イメージ着色)桜天満宮祭植木市 -尾張名所図会(イメージ着色)

東照宮祭-尾張名所図会(イメージ着色)東照宮祭-尾張名所図会(イメージ着色)医学館薬品会-尾張名所図会(イメージ着色)医学館薬品会-尾張名所図会(イメージ着色)また本町通の界隈には、名古屋を代表する大店が競って軒を並べ、東照宮や桜天満宮の祭礼時には山車行列の行進や植木市などが開かれ、城下の人々に大きな楽しみを与えました。

蒲焼町筋長者町の西には漢方医の浅井家が医学養成のために医学館を開き、毎年六月十五日には「医学館薬品会」を催し珍しい動物や魚介、草木、物産など一万余点を展示して一般の見物人に開放し、人々の見聞を広めました。

広小路の牢屋

引き回しルート引き回しルート広小路本町北東の庚申堂に向かい合って広小路の牢屋がありました。現在の拘置所のような存在で、判決がおりるまでの容疑者が収容されていました。同時に、牢内で罪人の処刑も行われました。

名古屋城下の処刑場は開府当初、橘町(現在の栄国寺)におかれましたが、本町通の賑わいとともに二代藩主光友によって新川町の土器野に移されました。磔(はりつけ)や火あぶりの刑、晒し首など特に罪の重い犯罪者の処刑が土器野で行われ、その他の処刑は広小路の牢内で行われました。

処刑に先立ち重罪を犯した囚人は裸馬にのせられ市中を引き回されました。広小路の牢屋を出て碁盤割の中をまわる小引き回しと、土器野で処刑される囚人たちの大引き回しがありました。

遊興を楽しむ歓楽街のなかに処刑場があることなど今の感覚では考えれませんが、これも江戸時代の風俗を知るエピソードのひとつかも知れません。