広小路にあった笑いの殿堂
すし詰めの劇場の中で、息をこらして舞台に立つ芸人を見つめていた。昭和三十年代の前半、劇場はいつも超満員であった。今は洒落た店が立ち並ぶ納屋橋川畔の西北角に、二つの劇場が建っていた。
通りを隔てて建つ劇場の名は、富士劇場と中央劇場といった。
富士劇場は寄席として戦後の芸能史を飾る芸人が東京から、大阪から来て舞台に立った。後にミヤコ蝶々や京唄子は、富士劇場の思い出をなつかしそうにTVで語っている。この劇場を経営していたのは丹坂和義さんだ。何人もの芸人が丹坂和義さんを尋ね、舞台に立たしてくれと頼む。
若き日の森繁久弥も丹坂さんを尋ねてやってくる。舞台で挨拶をさせて欲しいということであった。「底抜け二丁拳銃」を上映しているときであった。
「劇場側からは、そんな舞台挨拶をさせる時間はないという。そこを無理に頼んで挨拶をさせました。申し訳ないので、劇場の前の喫茶店でお茶を飲み、別れたことを思い出します。」
四・五年前、丹坂さんにお会いした時だ。なつかしそうに当時のことを思い出すように、ひとりひとりの芸人の思い出を語られた。
富士劇場の寄席は六百席だ。席の数としては、寄席の中でも有数であった。東京は落語、大阪は漫才が寄席の中心の芸だ。ところが名古屋の富士劇場では、東京からの落語、大阪からの漫才という両方の芸を楽しむことができた。その上、東海林太郎、淡谷のり子という歌手も舞台に立つ。藤田まことが司会をするという日もあった。客はたいそう喜んだが、経営は日に日に厳しくなってくる。なにしろ東西の芸人の俗にいう「アゴ、アシ付き」の興行だから、経費がおびただしくかかる。東京の寄席ならば、家から寄席に通うことができる。名古屋では交通費、十日間の宿泊代、食事代を払わなければならない。その上、とられる税金は莫大な額であった。
「中村遊郭の帰りの人や、魚河岸に来た多勢の人たちが、広小路を笹島の方から歩いてくる。しかし、納屋橋を渡る人はない。みな北西に道をとりました」と丹坂さんは言われる。それほど多くの人が寄席に遊びに来たということだ。
しかし、さしもの富士劇場も閉館することになる。
「名古屋の人には喜んでいただいた。芸の伝統も伝えることができた。よいことをしたと思っています」丹坂さんは言われる。
昭和三十六年、富士劇場と中央劇場を取りこわし、丹坂さんは、当時としてはきわだって高い四階建てのビルを建てられた。そして、その壁をピンク色にして、明るいさわやかな感じを出すようにされた。モダンな人目を惹くピンクビルで、丹坂さんは牛道楽という店を出される。
広小路唯一の寄席、富士劇場が姿を消してから久しい年月がたつ。